都市史特論06/〈境内〉と〈町〉〜多核複合的な都市領域

 西アジアでは余剰の社会化過程が都市を発達させ都市国家を生み出すのに対して、東アジア(少なくとも日本)では王権が都市という仕組みを導入した。権力はその機構が大きくなればなるほど商工業者を組み込まざるをえなくなる。古代権力はいちおう国家を一元的に統治していて、そのために必要な機構こそが都城であったし、そこでは官設の市場が管理されていたが、権力が弛緩すれば都城の実効性が弱まり、潜在していた様々な権力が自らの機構を組み立て独自の都市的領域を営むようになる。公家・社寺・武家のいずれもがこうして求心的・階層的な〈境内〉をつくる。第4回ですでにみたように、道路に沿って町家が軒を連ねる〈町〉も古代権力の衰退とともに徐々に形成されたものだった。それはミチという線に取り付く均質な線的領域をなす。〈境内〉は核のまわりにそれを従属させて面的領域をつくったわけだが、一方で権門の支配に取り込まれずに〈町〉だけで自治的な都市的領域を保持する場合もある。戦国期京都の上京・下京集落とか、有力な港湾都市などがそうだ。
このように多様な都市的領域が併存し、拮抗(取引も戦争も含む)するのが中世であり、そのなかから地方領主としての一円支配を確立していく大名が、それら都市的領域をピースと捉えてパズルのように並べ直し、大名の館を核とするひとまわり大きな〈境内〉へと統合する力業が城下町の原理だとみなされる。いやダイナミックだなあ、都市史って。
このあたりを図式的に理解しておくと、近世から近代への展開も飲み込みやすくなるだろう。