西洋建築史04/組積系と軸組系〜オリエントからギリシアへ

1015 メソポタミア、ペルシア、エジプトなどの古代文明にみられる建築物をみてゆくと、石という同じ材料がいくつかの構法とその複合という高度な水準にまで高められていくのが分かる。構法、正確には構法の術 art of construction とでも言うべきかもしれない。つまりは力学的な仕組みとしての構造(structure)と組み立てる方法体系としての構法(construction)とを建築的意図と照応させ一定の形態へと収れんさせる術をそのように言ってみたいのである。すると、構法でいう組積造の系統はメソポタミアのzigguratやエジプトのpyramidのような稠密な「量塊 mass」から、一定の領域を区切ったり空間を閉じたりする「壁 wall」までのレンジがある。一方の軸組系はペルセポリスの百柱の間やハトシェプスト女王葬祭殿の多柱室のような「柱−梁 post-beam」の形態をとる(column-lintelというべきかな)。石や煉瓦に、これだけ異なる表象的性格を与えたオリエントの建築は、それを施設や部位に応じて使い分けつつ複合させ、高度な建築コンプレクスを生み出していた。
このうち、最も古い時期には建築史の主役の座にあった量塊性の極がやがて後退して消えてゆき、「wall」と「column」とが残る。ギリシアの神殿は、オリエントではwallの囲いの内に並べられてホールをつくっていたcolumn群を、wallの箱(神室)を取り巻く外周柱列へと反転させたものと言ってもよいだろう。柱列が露出し、そのリズムが彫塑的な建築表現の主役となることで、columnとwallのグリッド・システム的な整備が促され、またcolumnを中心とする比例秩序(オーダー)の整備が要請されていったと考えられるだろう。
ちなみに古典期ドリス式の神殿では柱高比(柱の下部直径に対する高さの割合)が4〜5の、かなり古拙的というか要するに重々しく鈍い感じのものが多いが、イオニア式・コリント式が主流になると柱高比9〜10といったすらりとした柱をたくさんならべた優美で軽快なデザインが一般化する。これだけ柱高比が違うと、同じギリシアでも全く異質である。4とかいう例では、ほとんど柱礎や柱頭がお隣どうしでくっついてしまいそうだが、柱がすらっとして、柱間が空いてくれば、グリッドシステムの意識も先鋭化せざるをえない。また、columnといってもかなりマッシブで過剰なほどの圧縮力の表現であった古い事例と比べたとき、のちのものでは柱列がほとんどスクリーンのようにすら見えてくる。このあたりに、古代ギリシア人がリズムやプロポーションへの感性を研ぎ澄ましていく様子がうかがえるように思うがどうか。