西洋建築史03/都市の誕生〜メソポタミア〜

前回の主題は、新石器革命による「建築の誕生」だった(ただしそれは、洞窟から出たヒトが、地上に資材を積み上げたり結び合わせたりして建物を構築しはじめたことを意味するのであって、「建築 Architecture」概念の誕生はまた先の話題)。メソポタミアギルガメシュ叙事詩に「神殺し」(森の精霊を殺す)の主題があるのは、旧石器的想像力を打ち破った革命の精神的な埋め合わせであったに違いない。
さて初期の主な建物は、住居、祭壇、墳墓などであったようだが、やがて農耕がそれなりの社会を生み出し、しかも収穫の余剰を定常的に生み出せるようになると話が変わって来る。余剰は危機に備えて備蓄され、備蓄は神に捧げるかたちがとられたが、その管理者としての神官こそが、いわば最初の「専門家」だったと考えられる。神官を中心とする祭祀集団の周囲には専門の工人集団も形成され、備蓄の防衛のためには軍隊が生み出される。堀と城壁をつくる労働力にも、余剰の小麦を与える。余剰を徴収して備蓄化し給与する仕組みは官僚機構を生み出していく(ちなみに神官と将軍との関係のありようは様々で、それが国家のありようを決めることは、日本史がよく物語るところである)。余剰が大きければ、他所でしか産しない品々との交換も活発化し、商人が生まれるだけでなく、都市には多様な異郷者たちが出入りするようになり、多様な風俗が生み出されるだろう。こうしてみるみるうちに食糧生産に従事しない人々の人口が膨らんでいくが、彼らが便益と防衛のために集まって住んだのが「都市」なのである。

都市とはしたがって「扶養される人々」の集住地であり、それを支える周辺の農民たちが「支配される人々」となる(恐るべき逆説ですね、ゆえに歴史が動くわけではありますが。ちなみにあえて両方とも受動態にしてみると異様な効果があることに気づきましたがどうでしょうか)。

誤解してはならない点は、はじめから「農民」がいたわけではないこと。いや皆が農民だったわけだが、彼らは農閑期には道具等をつくるし、簡単な交易くらいやっていた。つまり、誰でもいろいろなことをやるのが当たり前で、我々がついつい抽象的に想定してしまうような専業的農民は、この「都市」という仕組みがつくり出した分業体制の産物。しかも彼らはやがて農産物以外のモノをいつしか都市に頼ることになる。貨幣もあるしね。このように都市との関係において位置づけられた周辺を後背地 hinterland という。都市と後背地とがセットになる仕組みを「都市」と呼び直すべきなのかもしれない。これが国家でもある場合、このセットは「都市国家 city state」と呼ばれる。

さーて、以上はメソポタミアでのケーススタディから抽出された古典的な思考モデルだが、そのストーリーのなかに以後の建築史で主として取り上げられることになる建築種別 building type がかなり登場していそうなことに気がつくだろうか。倉、神殿、宮殿、役所、要塞などなど(しかもこれらはほとんど類縁関係にありそう)。

そしてウル Ur の復元CGでも非常に印象的なのは、周辺農村の家々は今もイラクの田舎にみられる特徴的な葦(あし)の家なのに対して、都市は日干煉瓦を積み上げた矩形のコートハウスに埋め尽くされていること。市民階層が力をつければ、この都市型住居も建築史の主役になっていくだろう(ルネサンス)。(というわけで、建築史はまったく階級的な構造のもとに語られてきたことがあまりにも明らかなわけです)