西洋建築史02/先史時代の建築〜非対称世界への旅立ち


ヒトの革命にはいろいろあるが、
(1)「心の革命」(5-6万年前。脳の革新)
(2)「新石器革命」(約1万年前。農耕のはじまり)
(3)「モーセの革命」(約3千年前。一神教の発明)
の三つを置くと、建築の歴史も理解しやすいように思う。長い長い旧石器時代の末におこる(1)によって、ヒトはラスコーの壁画のように事物や世界観を再現できるようになり、(2)によって制御の対象となった大地の上に建築を工作しはじめ、(3)によって絶対的な無や全体性を含んだ体系を構築するようになる、と考えればよいからだ。するとモダニズムですらその延長上に位置づけられる。お気づきと思うが、(1)と(3)は中沢新一(比較宗教学)の『熊から王へ』とか『狩猟と編み籠』などなどから教わった。今日の授業は(1)と(2)。
まずはヒトの男が山羊の女と交わることで両者の間の正しい秩序を学び一人前の狩人になる、という神話(現代語訳)を朗読。ヒトとか山羊は種の名前だが、どちらも人間=人格であって、種の差異は、毛皮を被ったり脱いだりするだけで相互に入れ替わることのできる対称的関係として描かれる。その神話でヒトの青年が山羊の妻から狩人たるに必要な知を授けられる場は洞窟であり、そこは山羊の男や女が住む「山羊の洞窟」だと紹介される。旧石器時代はヒトという人間も洞窟に住んだが、山羊という人間も洞窟に住んだ(神話では)。するとラスコーやアルタミラやフォン・ド・ゴームの具象的な動物の図像に満ちた洞窟は、まさに「バッファローの洞窟」や「バイソンの洞窟」だったとも思えてくる。つまり祈りの場とは、実は他の人間(動物=精霊)の住居として想像されていた場ではなかったろうか。「心の革命」とは、おそらく錯綜的・横断的なニューロン活動を可能にした脳の構造変化であり、これによって事物をアナロジーやシンボルや分類などによって描き出せるだけのリダンダンシーを脳が持つようになったのだが、そうしてヒト(ホモ・サピエンス)は図像を描くことで動物たちの住処をつくり出し、その場で様々な知を身につける儀式を執り行ったのではないか。つまり、動物とヒトとが対等な世界において、狩猟という両義的で際どい活動をきちんと意味づけられる者だけが大人になったのではないか。そうした知の伝授が、身体と環境とが溶け合ってしまうような洞窟の内部で行われたというのはまことに似つかわしい。
ところが新石器革命は、ヒトをして制御の対象としての自然を発見させ、旧石器的想像力を打ち破って、ヒトとともにいた人格=精霊たちの上に神(太陽に重ねられる)をつくりあげ、それに仕えつつ他のヒトを支配する王を生み出した。獲得した磨製石器(のちには青銅器や鉄器がつづく)によって木や石を加工し、農地の近くに定住集落を築くようになる。大地の上に建て築かれた住居は、洞窟とは違って、地域の環境を利用しつつ対抗する、そのモードを反映させた諸種の類型(竪穴式住居、杭上住居など)を発達させていくだろう。彼らの祈りの場は、重い石を積み上げ、または屹立させたごときものになるだろう。
建築はそうしてはじまるのだが、そのことの重みを知るためには、ヒトの男が山羊の女とつがう神話に伝えられた、“建築以前の世界”への想像力を持たねばならない。