巨大な家

こんなわけで、昨日、私の自宅にもほど近い新百合ケ丘の住宅地にSさん父子をたずねてインタビューをした(9月28日日曜日)。1960年頃までは山林と水田と畑の混じる丘陵地帯であった場所が、みるみるうちに見渡す限りの住宅地へと変貌していったプロセスを聞くことができた。きわめて明確かつ整然とした話で、公団の百合丘住宅団地の開発からはじまる、ディベロッパーによる連鎖的・波及的な宅地開発の過程が、地形の解読まで含めてきれいに説明できるように思われた。しかし、このインタビューの途中でふと、S家の歴史を聞いておくべきだろうということに思い至った。

S家はもともと長野の現・野沢温泉村内の集落で代々庄屋であったのだが、大正に入った頃から徐々に次男以下の男たちが東京などへ出るようになった。これがSさん(1931年生)の父親の兄弟たちである。Sさん自身は終戦を長野で迎えたが、一足先に東京へ出ていた兄を追うように1956年に上京。中学の同級生は100人中30人しか故郷に残らず、他は東京、大阪、名古屋などの大都市、それも大半が首都圏へ流出した。そして、結婚した自分が子育ても考えて落ち着く場所を見つけようとしたとき入手した土地は、公団の大型団地としては最初期に属す百合丘団地(1960)を起点に波及的に開発されていった宅地のひとつだった。そのころ、銀行も生保会社もみな系列ディベロッパーをつくって土地を買収しては造成していた。東京に出てから結婚後も借家を住み替えて来ていたSさんは、その土地に初めて自分の家を建てた(1964)。

長野の本家は巨大な家だったとSさんは語る。昨日のインタビューは近くに住む息子さんの家をお借りした。見かけ上は分からないが、1970年前後のヘーベルハウスをリノベーションしたのだとか。たしかに近隣には昔のままらしい工業化住宅がわずかながら見つかる。父上は我々とテーブルを囲む部屋の天井を指差して「長野の家はまあこのうちの十倍くらいありましたね」と。その家は木造だが内部が四層になっていて、Sさんが子供の頃には曾祖父まで4世代が住んでいた。上層には若い者が、下層には老いた者が寝起きし、その配置は世代交替のたびに下へ下へとスライドする。Sさんは若くして東京へ出ることになったが、かつて4世代同居の時代には、家に残る長子は生きている間に3世代の弔いを経験し、そのたびに権力の交替を見届けた。現代の常識から言えば、昔の大きな家は恐ろしくデカかったのである。おそらく材もゴツく、頑丈で、メンテナンスをしながら100年や200年は維持したかもしれない。

家というもののスペックに対する発想が、まるで違ってしまったのである。規模も、材料も、耐用年数も。この変化の射程は大きい。