“行き詰まり支援型”研究症候群(?)

0926Fri. 大学院の研究中間報告会が開かれた。計画系のM2とDが対象で、約40名の研究を1日がかりで発表+討論。うちの研究室がトップバッターだったので、先生方の突っ込みに苦しむ院生たちをみて僕も苦笑したり援護したりするドキドキの時間からは間もなく解放され、午後はたっぷり他研究室の発表を聞いた。するとだんだん何となく息苦しくなってくる。と思っていたら休憩時間にS先生が近寄ってきて、明治大学の院生のみなさんはどうも“21世紀”の行き詰まっていく社会動向をますます支援するような研究が多いですナと。まったくそのとおりだと僕も思うところがあった。つまり、“現在的”であろうとすることは、いかにも正当に見える社会的要請に対してすぐにでも役立ちそうな“正しい”応答をすることばかりじゃない。あまりに素直に答えていると、その要請を発した社会的現実をそのまま補強してしまいかねない。“私”と“現在”との関係の持ち方は色々ある(建築を学んできた人なら、“関係”という言葉の広がりを実感していないはずはない)。
振り返ってみると我が研究室は役に立たん研究ばかりだが、それなりの明るさがあって素直によいと思うのだった。とはいえ“現在”への問いをたんにすっ飛ばしているだけ、という話もあるのでもうちょっと考えよう、君たち(しかしくれぐれも自粛して縮こまるのではなく、問いの射程をポジティブに深めることが大事だ)。
ちなみに今日ぼくが興味をもった研究のひとつは、自閉症スペクトラム障害の人への支援や環境改善に関するもので、この研究は(動機としては今日の社会的要請に正しく答えようとしたものではあるのだが)、実はまったく“正しい”答えが通用しないということをきちんと受け止めようとしているがゆえに、不謹慎を承知で言えば、明るい可能性があるのだ(その世界の身体−環境系はたぶん通常とは大きく異なっていて、たとえばサインや地図にナビゲーション機能を期待できるか分からないし、しかも自分のいる系が通常の系とどう違うかなんて患者自身は客観的に説明できない)。アクセスしがたい世界の存在を認め、なおかつ何とかそこへ到る道筋をつけようとする営みこそが研究ですよね。
実は、他のもっと普通に意義ありげに見える問題にも、同じように(直接に答えてしまう前に)立ち止まって受け止めるべき問いが含まれているのではないだろうか。