台湾調査報告 その3


かつて竹市が開かれた二層行渓の白砂崙側の土手。ここに竹と人と牛車がひしめく景観を想像してほしい。撮影者(私)が立っている現在のRC造の橋も、昔は竹筏をつなぎあわせた浮き橋だった。

17日に南部での調査を終えて台北に戻る。今日8月19日は国立台湾図書館(旧・国立中央図書館台湾分館)にてライブラリーワーク。かなり収穫あり。
16-17日のフィールド日誌はこの下に書いておきます。
8月16日、9日目。再び左鎮。茅さんのトラックで11日に訪ねた山間最奥部の集落へ。雨の中、先日やり残した調査をやっつける。学生たちが実測に奔走する間、我々は85歳のおじいさんに話を聞く。彼は何と小さなノートに備忘録を付けている。もっとも近年書いているらしいのだが、そこに土确(日干煉瓦)造の主屋を起工した日付が明記されており(父の代の普請の記録)、しかも室内の竹床は竣工時のままだという。いかにも長い年月を経てきたと思わせるその竹床は、これまでに我々が確認しえたもののなかで最古である。まだ確証というところまではいかないが、総舗は、植民地期の「日本家屋の影響」以前に存在した「ある形態」の後裔なのだと考えてよいのではないか。大きな発見の余韻も覚めやらぬままトラックは308高地へ。美しい「月世界」を見下ろし、しばし言葉を失う。地鶏に舌鼓を打った後は砂糖工場を見学。左鎮は植民地期にはサトウキビのプランテーションの様相を呈していた。つづいて左鎮老街。竹管の街屋(町家)がRCの透天厝へと転換したケースを示す激しい家屋断面。そして1人のおじいさんに出会う。彼は植民地末期に高座(神奈川県)での飛行機製造に駆り出された小年工。いまもかつての同僚たちとの交流が続いているといい、改姓名時の日本人風氏名も列挙された名簿がある。

8月17日、10日目。集中調査最終日は総舗研究の初心にもどり、彼いなくして住総研の論文も書けなかったという重要人物、湾裡の蘇さんをたずねる。蘇さんは、尋常とは思われない詳細な記憶を引き出しつつ丁寧に日本語で説明する。やがて二層行渓の川辺にかつて開かれていた竹市の景観がよみがえってくる。「山の人」が水嵩の増した二層行渓に筏に組んだ竹を大量に流し、海辺の人たちがそれを買いにいったのである。さっそく、午後はその川辺のある白砂崙へ向かう。土砂が堆積してできた三日月状の広場がそれだ。通りかかったおじいさんの話を聞き、やがて集まってきた3人のおじさんの集中砲火を浴び、記録するのがやっとという状態になる。そして、竹が切り出される場所は、昨日見た「月世界」の付近なのだった。あの荒涼たる粘土の山々と眼前の川辺の広場とがつながっていたのである。