台湾調査報告 その2


写真は13日に出会った古亭畚と呼ばれる米倉。白河にて。


毎日朝から晩までフル回転のため依然として書く時間がとれず・・・。またしても「とりあえず」なのですが、この写真をアップしておきます。

遅ればせながら15日までの調査日誌をアップします。
8月12日、5日目。ブレイク。学生たちはグループに分かれて散る。我々は学生2人と後壁へ。有名な黄家古厝(邸宅)を見学した後、菁寮へ移動して小学校、教会(Gottfried Boem 設計)、そして老街(古い町並み)へ。布団屋を取材。総舗は「寝るワザ」に関係するので布団は無視できないからだ。つづいて老街を散歩するとかつての販仔間の建物に出会う。販仔間とは行商人や労働者が使う安宿のことで、各地での聞き取りによればこれも揚床になっていたらしい。ここのおばさんに尋ねると、やはり中央に土間が通り、その両側に3つずつ計6個の3畳敷きの小部屋の引戸が並んでいたといい、各2人寝られた。ベッドを隙間なく並べたのに等しいとも言えるが、連続した揚床(壁で切れているが)になる点が興味深い。こういう建築形式は何時まで遡るのだろうか。夜22時過ぎ、昨年知り合った陳君(台北芸術大学の林會承先生のお弟子さん)が台南に合流。

8月13日、6日目。陳君の車で白河へ。陳正哲先生も車で向かう。学生たちは電車。まず民宿に入る。昨年陳君に紹介してもらった李先生(中原大学)がたいへん竹に詳しく、白河ではその李先生を案内したという地元の学校の先生と午後待ち合わせる。少しインタビューをした後で、白河郷内の竹管厝の残る集落を案内していただく。ある集落で、古亭畚に出会う。僕にとっては初体験。ドゴン族の住居か何かを想わせる丸い穀倉で、上に帽子のような円錐状の屋根がのっかる。基礎は乱石を敷いた上に竹管を並べており、その上に構造上は竹カゴを大きくしたものを載せ、内外に土と石灰を塗って仕上げている。円錐状の扇垂木も竹管で、頂点に近づくほど適当に本数が間引けるように長短を案配する。可愛らしいが直径は壁で4m弱、軒で5m以上ある。同じ村で、竹管厝の曵屋の例に出会う。何代か前の財産分与の際、5人の男子が畑地を宅地として相続し、なおかつ等分された家屋をその宅地へ移動させるためにジャッキアップをし敷き並べた丸太上を曳いたのだという。しかも同じ家にかつて煙草を製造していた烟楼がある。なかなか背の高い大きな建物で、その上に煙抜きの越屋根がのっかる。最後は平埔族の村、六重渓を訪ねたが、すでに夕刻のため残念ながら宿へ帰還。ちょうど藤森研のBさんとN君が到着したところだった。食事の後、我々の調査についてショート・レクチャー。

8月14日、7日目。民宿のオーナーに紹介された職人(大工)を取材。学生たちは古亭畚、曵屋の竹管厝、烟楼という魅力的なテーマの詰まった昨日の集落にて実測調査。午後は我々の午前中の取材で案内された家を学生たちが実測。我々は入れ替わりで古亭畚のある村で聞き取り。曵屋をした背景を詳しく聞くことができた。その場へ、元興寺文化財研究所の角南さんが合流。宿へ戻った後、自転車で街に出て羊肉の鍋をつつく。TVは五輪の野球台湾−日本戦。居合わせた地元のお客さんと大いに盛り上がるが、結果が出る前に引き上げてよかった。宿でも角南さんたちと飲む。

8月15日、8日目。3日間の白河調査の最終日。早朝6時出発で蓮(ハス)を見学するツアー。民宿のオーナーの案内で自転車を走らせる。蓮の形態生成システムに感激する。小型の古亭畚に出会ったのも幸運。早起きは三文の徳。朝食後、もう1人の職人取材を試みたが断念。もう1人もダメ。つづいて竹屋を取材するが、これも空振りで、ただ見学できるだけだった。こういう日もある。というより、今日は普渡の拝拝の日で、冥界から降りてきた孤鬼(身寄りの無い霊)を廟だけでなく企業でも各戸でも、しっかりもてなさなければならないし、不吉だから出歩かないのだ。午後は竹家具の職人さんに取材。家具は竹管に穴を開けて貫を通す工法を基本とするので、建築に近い。彼ら職人は実際に竹管厝をつくることもできるという。対照的に、竹ヒゴを編む技術は基本的には一般の農民のもので、同じく編む技術でつくられた古亭畚も村のなかの器用な人たちが頼まれてつくるものだし、また竹管厝の場合の竹小舞の土壁も農民がじぶんでつくる。この「貫いて固める」「編んで整形する」という二つの技術系統が、建築・家具・道具といったジャンルを超えて、いわば技術の二層をかたちづくっているのは興味深い。最後に六重渓を訪ねるも今度は大雨。台南へ引き上げる。