台湾調査報告 その1


写真は8月11日の左鎮調査。茅さんのトラックにて山間をめぐる我々。


連日たのしく充実した調査が続いている。
なかなか時間がとれず報告が書けないのでとりあえず8月10日までの日誌だけ。 →8月11日分で一区切りになるので追加します。
8月7日夜、前夜台北に入っていた人環大の学生3名と台南へ(高速バスで4時間半)。同じ頃1日遅れて到着した明大の5名も新幹線やバスを乗り継ぎ、夜9時頃いつもの宿で合流。顔合わせの乾杯。

8月8日、調査初日。関廟へ。昨年たまたま使ったタクシーの運ちゃん、黄さんがここの街の人で、竹産業に通じているようだったので(彼の家も竹に携わっていた)、彼に最初の水先案内を頼む。辿り着いた竹工(住宅から家具・道具まで)の郭さんが関廟と隣の龍崎を彼のワゴンで廻ってくれる。龍崎にて1軒の竹管厝(竹造家屋)を実測+インタビュー。総舗は竹と木のハイブリッド。途中、ある小学校に老人4人が最近復元した竹管厝があったのでこの4人の誰かにインタビューできないかとアプローチを試みるが農繁期のためうまくいかず断念。

8月9日、2日目。朝、陳正哲先生(南華大学)が合流。左鎮へ。ある資料館にて平埔族(台湾の平地原住民)について勉強。台南周辺はシラヤ族の分布地域。一般に平埔族は、17世紀以降に移住してきた漢人との同化が進んだため、台湾漢人のなかに深く血を残しているもののほぼ失われた民族と言ってよい。わずかに自己認識を保持している地域が一部にあるが、彼らの文化もまた大きく漢化されている。つづいて隣の新化へ。正哲先生のよく知る平埔族の家へ。おじいさんにインタビューした後、村を廻り、彼等の旧家である竹管厝を実測調査。初めて竹床(総舗と同型だが竹製の床張り)に出会う。

8月10日、3日目。正哲先生とともに嘉義の大渓厝へ。ここに竹管厝がかなりまとまって残っているとの微かな情報を頼りに、正哲先生の同僚や院生の方たちとその集落へ向かう。果たして竹管厝がそこここに残る村であった。ただし多くは無住で、住まわれている竹造家屋はわずか。しかし混構造の実態の一端を知る。竹管厝といっても木や煉瓦との混構造が当たり前の様相である。木もヒノキ、スギ、ビンロウなどの種類がある。総竹造の状態から、根の腐った柱とか、構造上の要になる部材を木に取り替えていくような置換プロセスがあり、またその経験から、最初から混構造で建築されるケースも多いようだ。軸組・小屋組の全部材が、材の加工性・力学的性能・経済性・文化的価値などの視点から選択されうる、取り替え可能な複数の選択肢のマトリックスをなしているらしい。また、本来は台湾漢人住宅にはないはずのスギ材の登り梁が架けられている例がある。午後は1933年生れの元教師、頼さんのお話をじっくり聞く。

8月11日、4日目。左鎮へ再び。昨年お世話になったシラヤ族の茅さんが約束どおり私たち全員をトラックにのせて山間を案内してくださる。まず1棟実測。つづいてさらに山間へ進むと白堊土(青色石灰岩)の露出した山々の壮絶な風景。つねに土砂が流れ出し地形は刻々と変化しているという。この土壌ではわずかな例外をのぞき草木は育たないので「月世界」と呼ばれる。竹も少なくなり、家屋は土确(日干し煉瓦)を主構造とするものに遷移してゆく。やがて辿り着いたのは車姓の同族集落で、様々な時期にわたる様々な構法の家屋があるため、きっと多くのデータが得られると直感。しかし大雨になってきたため急ぎラフな集落平面、構法種別、梁行断面スケッチをとって退散。茅さんのところへ戻って昼食をいただく。絶品。午後は職人(大工)を訪ねインタビュー。道具、各部名称、工法など不可欠な知見を得る。