錯乱のニューヨーク再読ゼミ終わる。

5月より学部4年生〜M2までの12名で丁寧に読んできたがようやく終わる。コールハース『錯乱のニューヨーク』ゼミ。
最後に、再度全体を読み通して二通りのまとめをしてほしいとリクエストしたところ、4年生のグループ2つが引き受けてくれた。ひとつは“マンハッタニズム全貌早わかり”(A3×1枚でマンハッタニズムの基本コンセプトがひととおりポンチ絵付きで早見できるもの)、もうひとつは“モダニズム言及箇所抜き書き集”である(コールハースモダニズム批判を再考するための資料)。今日はそれらを皆で検討して最終回としたのだが、うん、あらためて色々なことがはっきりしてきた。
たとえばルドフスキー『建築家なしの建築』(1964)、ヴェンチューリ『ラスベガス』(1972)との関係性。(推論だが)コールハース(1978)は、前者からは建築の自生性(spontaneity)という論点を継承しつつ、しかしそれを前近代的ヴァナキュラーではなく、超近代的メトロポリスにこそ見る視点を提出した。また後者からは建築における資本主義的・大衆的欲望の問題を取り出し、なおかつ、議論を記号(シンボル)のレベルにとどめず、むしろそれを要請する巨大な自動運動(automatism)こそを検討している。この二書の結合として『錯乱』を読むことも出来なくはない。
もうひとつは、「輝く都市」などル・コルビュジエの都市計画をコールハースが「水平の摩天楼(horizontal skyscraper)」と呼ぶ理由。高層ビルが水平に倒れているわけではないから奇妙な呼び名に思えたが、要は平面上で機能主義的に切り分けられた都市というニュアンスなのではないか(the four 'functions': living, working, recreation, and circulation < Athens Charter)。むろんマンハッタニズムの「垂直の摩天楼」は、社会−空間の平面的な切り分けに対する最大の批判になっている(個々の敷地の上方に投入できるだけのあらゆる要素を共存させる原理だから)。ところでコルビュジエピューリタン的志向性からすれば、かえって「自生的摩天楼」としてのマンハッタニズムの「高貴なる野蛮性」=「純粋性」は彼の嫉妬の対象であったに違いない。コールハースはこのあたりも鋭く捉えていて驚く(ルドフスキー的なモダニズム批判をマンハッタンに投入して展開するという発想にはこの点でも理がある)。自生的純粋性は、合理主義的純粋性に比べ、意思的である必要性がない点で強い。結局、コールハースはこの自生性に嫉妬せず、むしろそれを意思的操作の範疇とどのように調停しうるかを考えてきたのだと思う。