近代建築史15(最終回)/モダニズムを超えて

まずはモダニズムの最低限の規定をしなくちゃ。Clement Greenberg の「自己批判を通じた自己純化」は古典的。「絵画とは何か?」を突き詰めれば平面であるということ以外には残らないように、「建築とは何か?」を問えば人間活動を内包する空間だということになり、人間−空間系を成立させうるギリギリまで理屈が切り詰められる。もちろん人間も眼と手と足があって直立したり腰掛けたりする動物などと抽象的・一般的に規定されるだろう。国際主義、歴史様式との決別、装飾の忌避、工学技術への信頼などはこうしたモダニズムの核心とリンクしていることが比較的素直に理解できる。ちなみに藤森照信さんの「植物→鉱物→幾何学→数式」というのもモダニズムが建築の抽象度を高め、純度を高めていったことを、各段階のモデルで示したものだ。
ではモダニストたちのアーバニズム志向は? 意地の悪い見方をすれば、建物単体が純化されても、周囲との関係における混乱や矛盾は残ってしまうから、そんなことが問題にならない都市をつくらねばならない、ということであったろう。もちろん、真正面から都市の批判・純化が目論まれたのだとしてもよい。この場合も「都市とは何か?」があくまで一般論的に純化される。現実の錯綜した都市を背景におけば、これは倫理的なヒロイズムあるいはパラノイアにならざるをえない。
いずれにせよ、批判して削ぎ落とせるものがある間はモダニズムは走ることができる。しかし、逆にいえばもう走れないという地点を目標にしていたのだから、つねに先細りでいかにも窮屈だし、もし辿り着いてしまったその時にはムーブメントは止まってしまう。Le Corbusier の「300万人の都市」他の一連の都市プロジェクトも、飛行機や自動車が高速で移動するらしいが、都市そのものがいかにも静かに見えるのは当然といえば当然なのだ。
ところで、自己純化のふるいにかけたとき手許に残るギリギリのものは何だっただろうか。それは、(1) 機能主義、(2) ユニヴァーサルスペース、の二つであったろう。前者=(1)は、カタチを決定するのは機能だけだというところへ「純化」している。具体的には機能的要求を分解して純粋な機能単位を取り出し、それぞれその機能が要求する適切な空間ヴォリュームを与え、それらを最も無駄がないように再構成する、という方法をとる。これが最も厳密な機能主義で、実はその忠実な実践者は構成主義者の一部などにみられるにすぎない。ちなみにコルビュジエなんか建築ではほとんど機能主義者としてはいい加減だが、アーバニズムでは純度の高い機能主義を強く要求しているのが興味深い。対して後者=(2)は、いかなる機能をも許容できる無限定で均質な空間へと建築を「純化」する。というわけで、この二つは全く異質なものだ。ただし、ユニヴァーサル・スペースの場合も、無限定空間に放り出せない機能を収める容れ物としての限定的な「コア」によって補完されねばならない。そこの部分では機能主義が働いている。というように、(1)と(2)をもってモダニズムの純度の高い成果としてよいと思う。
ここで注記が必要。機能主義は機能決定論だが、実は機能はカタチを決めることができない(とりあえず与えたカタチを機能によってチェックすることはできるが、そうである以上カタチはいくつもありうる)。それからユニヴァーサル・スペースはもはやカタチの放棄である(敷地サイズとか施主の要求する面積とかがカタチを決める)。
さて、このように考えてきた上で、モダニズムを批判するとしたらどこを突くか。それを推論的にあげてゆけば、およそ(常識より広い意味の)ポストモダニズムの多様な方向性を網羅することができるに違いない。ということで授業では、(a)変化と成長、(b) 形態の意味と多様性、(c) 地域とエコロジー、に大別してそれを紹介した。