中谷礼仁さんの岩波『科学』での連載「動く大地に住まう」がはじまっている。

kagaku_201505 表記連載が掲載されている雑誌『科学』(岩波書店)2015年5月号を著者の中谷礼仁さんより恵投いただき、今日拝読した。連載の第1回は「Buildinghoodへの気づき」と題されている。著者が2013年正月にはじめた「プレートテクトニクス際の旅」の、そのすべり出しとなるインドはウッタラカンド州での僥倖を記した、実に晴れやかな文章だ。

 冒頭の文体はSF小説の書き出しを思わせる。著者ははるかな異郷に協力者を得ながら身を動かし、ひとつひとつの場所の成り立ちに鋭敏に反応し、そうしていくつもの経験と疑問の断片を収集していき、それら断片が、やがてひとつの像を結ぶ。
 それら断片は、かわるがわる、かすかなきっかけによって呼び起こされる旅のなかの記憶である。きっかけとなった眼前の風景とその記憶とが重ね合わされるその瞬間というのは僕にもよくわかるフィールドワークの最大の魅力であり僥倖である。旅の緊張のなかで一体になった頭と体が、環境と対峙しつつも環境に染み出していくような、不思議に醒めたあの感じのなかで、その瞬間は訪れる。風景はたんなる見えがかりではなく組成として顕れてくる。おそらくその幾重もの断片の重ねあわせのなかには、著者の属すクニのそれも含まれるはずだが、それは連載のなかでいずれ語られるのだろうか。
 やがて結んだひとつの像を、著者は buildinghood と名付ける。hood という接尾辞が、それが付された名詞や形容詞が意味することがそこに生きている状態、を意味するとすれば、buildinghood はたぶん、人による建設=工作の数々がそこに生きづく一定の状態を指すだろう。グレゴリー・ベイトソンのマインド論を想起しながらいえば、それは複数の工作(物)が相互に関連づけられた系、を意味することになろうが、著者においてはたとえば石造の家をつくるのに必要な石切り場とか、家に持ち込まれて燃やされる薪を伐り落すためのハシゴ段として松の樹幹に一見中途半端に残された枝とか、干されるのに好適な家の屋根に積まれて家を断熱しているかもしれない干草とかまでが、その系に参加している。そしてもちろん「動く大地」が、それらの下にある(その具体相については直接記事に当たられたし)。「美」とは諸要素間の関係性への感受性だとベイトソンは言ったが、記事に挿図として掲載された写真はその意味でとても美しい。
 buildinghood はむろん異なる場所に適用可能なメタ概念であるが、今後の連載でも徹頭徹尾具体性を失わないだろう。場所を超えた共通性そのものが、「プレートテクトニクスの際」という実在論的な仮説に基づいていることも、言うまでもない。付言すれば、buildinghood という視座は、最近注目されつつある文化的環境 cultural landscape とも共通するところが多い。ちなみに landscape とは本来、地表の組成を指す言葉であって、日本の都市計画の学知が偏った価値意識を与えてしまった感の強いあの「景観」とは異質な、もっと淡々とした手触りのある概念である。そして、都市史分野における最近の大地への関心の移動もまた、むろんここに連なっている。連載の赴く先を楽しみにしたい。