2014年を振り返りつつ、今後の継続的課題なども書き付けてみる。

せっかく家にいるので箱根駅伝でも見ながら書くことにした次第。個人的備忘録。
(1) 『新建築』の月評(2014年1〜12月号掲載分)を担当。同誌を毎号読んでなにごとかを書くという経験は得るものが多かったし、言及した建物の設計者の方々から連絡いただくことも多々あり、月評を書くってのはこういうことかと。建築設計というのは所詮は物的要素の編成の技術なのだが、しかし、それがプロジェクトの成立条件を可視化したり、あるいは意思決定のクリティカルなパスを示したりする論理たりうるところにこそ、建築の建築 architecture たる所以があるはずで、「建築家 architect とは何か」っていう議論も、リレーショナルとかソーシャルとかの冠はともかく、そういう論理を組み立てうる者を建築家と呼ぶ、ということが基本のはず。最近の同誌はプロジェクトのプロセスを解説するページが増えているのが特徴的だが、むしろあれはある種の美事としての「社会性」が建築に求められる空気を反映したものか。むしろ必要なのはインテンシブな取材から組み上げる署名入りのジャーナリズムなんじゃないか、そういうものを強引にでもつくっていかないと、そこでの建築家の存在意義を取り出す批評が成り立たないんじゃないか    それが月評書きながらいつも感じていたこと。政治経済的なものを論じる土台をつくる方法。そんな考えを巡らせては月評の端々でつぶやいた気がする。
(2) 『ja』96号の山梨知彦・伊藤暁の両氏との鼎談は、そうしたつぶやきをもう少し一般化するつもりで建築の「クラス化(階層化)」について書いた10月号掲載の月評がきっかけになって組まれた(→当ブログ内の記事)。年鑑全体の編集形式は編集部によるものだが、これも鼎談の議論に呼応して一風変わった組み方が試みられている。僕が言いたかったのは、社会的な文脈への接続に積極的であれ、というようなことではなく、むしろ社会性を叫びながらプロジェクトの政治=経済的力学に無自覚に順応しすぎているのではないか、だからこそ、建築(そして建築家)が「クラス化」される状況を(身も蓋もないかもしれないが)議論の前景に出してみることが、逆説的に、建築が組み立てうるものを問い直す道なのでは、ということだった。
(3) 2013年秋からの「新国立競技場問題」について2014年も引き続き発言したが、これも僕の問題関心は同じ。研究室の学生たちも頑張って関連記事アーカイブをつくってくれた(以下、当ブログ内の記事)。

「再論:新国立競技場コンペ問題について」
「建築夜学校第一夜:新国立競技場をめぐる議論を終えて(ノート)」
「新国立競技場関連記事データベース」
「10月1日開催の新国立競技場シンポの内容が10+1 website にて公開 + 磯崎新氏のコメント、ザハ・ハディドによる批判」

この建物の立地やスペックを決めたのは過去の怨念も引きずった政治意志であって、槍玉にあがっている有識者会議やらコンペ審査委員会やら・・・はすべて(あえていえば)その政治意志の具現化を担う機関であるにすぎない。プロジェクトと設計者との関係についていえば何故か規制緩和のもとで大手民間デベが進める巨大再開発プロジェクトの場合にとても似ていて(ナショナル・プロジェクトなのに/ゆえに?)、なおかつ、意思決定の責任がどこにあるのかという観点でみれば「究極のアノニマス」ともいうべき状況(ナショナル・プロジェクトなのに/ゆえに?)なわけで、設計(の内容)の問題を指摘する正論をいくら投げ込んでも空回りになるのは構造的必然なのだ。「建築家」をプロジェクトの政治経済的構造のなかに置いて見る眼(批評)がやはり必要だ。
 90年ほど前の、明治神宮創建というナショナル・プロジェクトを思い出してみたい。明治天皇死去後、亡き天皇を記念せよという国民的熱狂を明治神宮創建というプロジェクトへと整流したのは渋沢栄一・中野武営・阪谷芳郎ら首都東京を動かす政財界の顔役たちだった。彼らと政府・官僚機構との擦り合わせを経た政治意志は、国会両院の決議および大正天皇の裁可によってオーソライズされ、これを神社奉祀調査会(有識者会議)と明治神宮造営局(設計組織)が具現化していった。(当然かもしれないが)新国立競技場ととてもよく似ている。政財界の特定の集団が主導し、官僚機構との調整やら国会決議やらで政治意志が固められ、有識者会議が作成した与件を設計組織が具体化する    違うのは、「天皇裁可」がなく、「設計組織」が官の機構でなくコンペで選ばれた民間設計者の組織体である、という点である。この違いは戦前・戦後の公共事業のガンバナンスの違いに由来するが、その形式上の違いが、しかし、ほとんど実質的な意義を伴っていないように思われることに注意したい。
(4) 明治神宮創建の日本近代史における意義を問い直すために、2009年頃から宗教社会学神道史・社会史・都市計画・造園などの分野を横断する共同研究を進めてきたが、その成果をまとめた書籍(藤田大誠・青井哲人・畔上直樹・今泉宜子編『明治神宮以前・以後:近代神社をめぐる環境形成の構造転換』鹿島出版会)を2月末に刊行予定である(amazonで予約開始、書影はまだですが →出ました)。1920年代に起こった環境形成をめぐる技術的かつ政治的な「構造転換」という普遍的問題を、明治神宮というナショナル・プロジェクトを通してつかまえようとした論集。一方、10+1 website 2014年3月号特集「伊勢/式年遷宮:古代建築と反復の神学」井上章一安藤礼二のお二方と議論する機会があって(→ブログ内記事)、あらためて近代だけでは見えてこない歴史の重さと粘りについても考えさせられた。
(5) ところで研究室の学生諸君は相変わらず毎年すごい。2014年は、研究室としては第1号となる博士学位を石榑督和君が取得した。彼はこれからは自立した研究者として、自分の責任において自分のなすべきことを立て、世に問うていけばよいが、毎年4〜5本出る修士論文は僕が何とかしないと埋もれてしまう。どこに出しても恥ずかしくない水準で未解決の問題群に取り組んでいる学生らの成果の蓄積をどうにかして社会化しなければならないと焦りつつある。
(6) 毎年8月に学生たちと1週間程度で行う台湾都市調査は、いよいよ台湾の地理学的条件と漢人の移民開拓史とを結びつけながら、地域システムとしての環境から家屋の材料・構法にいたるまでを、ダイナミックな歴史過程として全体史的に描く段階に突入してしまった(その一部はこれに書いた)。ところで今、都市史分野がアカデミックには活気づいていて、2013年には「都市史」というフィールドにあらゆる分野の研究者が参加するプラットフォームとしての都市史学会が設立されてもいるのだが、そこでも、地形学・地質学・人文地理学・歴史地理学などの(これまでの都市史研究からみれば相対的に)外在的な根拠を導入することで、研究方法論にたしかな根拠と質的な転位をもたらしつつ、やはり全体史的な方向を志向する傾向が顕著である。建築史学会の2014年度大会は「保存」という切り口から実はこの問題が問われていたし(当ブログ内「景観のアーキテクチャ:建築史学会2014年度大会シンポジウム」)、建築学会の都市史小委員会シンポジウムはむしろこの潮流を強力にプロモートしていくようなものだったが(当ブログ内「大地/地面/土地の三位相の複合としての「地」」)、2014年はこうしたいくつかのイヴェントにコメンテータとして参加。本当の意味で「問い」を組み立てる緊張感を持とうとしている人は少ない、というのはいつでも同じだが、これだけ全体史的な方向が強くなってくると、新しい視点を導入しても際立った運動性につなげるのは難しい気がする。僕自身にとっても研究室にとっても課題である。
(7) とにもかくにも、近現代史の問い直しが広範に求められているのをヒシヒシと感じるものの、それには都市や政治・経済にまで視野を広げないとだめだし、同時に前近代を含むより大きな歴史を組み立てる運動性の再構築を伴わなければならない。時間の不足に焦りつつ付け焼刃で乗り切るみたいな仕事の仕方に嫌気がさすが、まあ愚鈍だけれどやれるだけのことをやるしかない。元旦は、『建築雑誌』2013年11月号特集「「建築家」が問われるとき:自己規定の軌跡と現在」(日埜直彦さんに協力いただいて竹内泰さんと一緒につくった特集)を読み直している。僕はこのところ(2013年4月にやった堀口・神代シンポジウム以降)、19世紀後半、1920-30年代、1960-70年代、そして現在、の4つの時代を重ねつつ、建築論・都市論をめぐるパースペクティブを描くイメージを反芻していて、色々なフィールドで同じことを考えているのだが、同号で土居義岳さんは「第1の近代=1830-1930/第2の近代=1930-2030」という見取図を示していて興味深い。前者が先進国の基幹都市群を中心とした自由主義経済とその破綻、後者は国家制御・介入による強制的成長の普遍化とその破綻ということになろうか。これと、40〜50年を周期とする遠近法とを重ねることはたぶんできるだろう。そこに建築家(批評家や運動家も含む)を位置づけてみようと思う。
(8) 最後にプライベートなイヴェントだが、昨年は3月末〜4月初に息子と2人で自転車台湾1周なんてことをした(→ ブログ内記事)。毎朝7時頃には出発し、80〜130Kmくらい走り、夕方辿り着いた街で民宿を探して転がり込み、洗濯をして、飯を食って寝る    街並みや民家に目もくれず、ただ地形と自分に向き合う9日間(冗談抜き)。不思議な高揚感があった。