台湾調査2012夏・第2クール(2012年8月15〜22日)は彰化県北斗。

 研究室としては2010年度にはじめた台湾町屋調査も今年度で3年目(2010台南、2011吉貝、2012北斗)。昨年度からは法政大学高村雅彦先生の科研費のメンバーに加えていただき、そのなかで私たちの町屋研究を実施している。今年のフィールド北斗は(私が台湾各地を巡ってきた経験からいえば)他にはない際立った特徴を持った街なのである(あまり注目されていないので残念なんですけどね)。その特徴とは・・・
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 この写真は、ある街区の内部(いわゆるアンコ)なのだが、3〜4層のコンクリートの箱に囲まれた平屋の建物群は実は竹造の町屋である。何棟もの平入建物を連ねる構成のうち面路部がRCに更新されたわけである。
 台湾総督府の1930年代半ばの統計によれば、台湾中南部では家屋の大半(2/3ほど)が竹造であった。それはいわば(かつての)開拓移民たちのバラック(竹造家屋は安く速く建てられる非恒久的な家屋だったのではないか)がいつしか半ば恒久的な様式として定着したようなものだったのではないかと僕は想像しているのだが、(それはともかく)生産のための竹薮だけでなく、屋敷や集落を囲う防衛用の竹薮、主体構造から小舞や葺材までが竹でできた家屋、あらゆる種類の竹製の家具や道具といったものどもからなるかつての風景が一変しはじめるのはどうやら1960年代以降のことと思われる。結果、今では竹造家屋は中南部の中山間部にぽつぽつと残るにすぎない(その調査は2008年度に実施)。
 ところがこの北斗という街には、(小規模とはいえ都市であるのに)なぜか竹造の町屋が数十棟残されている。なぜそうであるのかも解くべき課題だが、とにかくある種の「基層」が眼前で確認できる希有な街なのだ。
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 僕としてはひとまず竹造町屋のサンプルを10棟ほども採れれば十分かと考えていたのだが、学生たちはそんなことで満足してはいなかった。初日の夜の報告からすでに、竹造を基層として、その後のタイポロジカルな変化と都市組織の変容が読み込めそうだという感触をN君、Bさんたちが語った。最終的にはかなり緻密で大胆な議論を構築できるだけの素材が揃ったと思う。北斗の街の皆さん、ご協力ホントにありがとうございました。学生さんたちはまとめもよろしくネ。

 さて、第2クールの調査について書かないわけにはいかないことがもうひとつ。それは、彰化県永靖郷の「餘三館」という著名な民家の一郭に泊めていただいたことだ(途中のゲストも入れると15名かな)。研究室の留学生、陳頴禎君の実家(宗家)で、何と『台湾十大民居』に撰ばれている。ここを私たちのベース・キャンプとさせていただいたのだ。これは何か恩返ししなければならない、ということで調査初日からこの「餘三館」の実測も平行して進めることにした。といっても文化財建造物に指定された部分の実測調査はずっと昔に行われている。ここでも学生たちの反応は素晴らしかった。記録する意義があるのはむしろ、文化財建造物を取り巻く、陳君のおじさんたちの住居部分、彼らの生活を支える広大な菜園(鶏・ガチョウが飼われ、多様な果樹や野菜が栽培されている)、前方の歴史性に満ちた庭・・・といったものなんじゃないかとT君やR君が言い出したのだ。いい調査ができたと思う。まとめたらおじさんたちに送ろう。

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 1週間だったがいろんな意味で収穫の多い調査だった。

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(この写真のタタミに気づいた方は鋭い。「餘三館」にはベッドではない、プラットフォーム状の寝床をしつらえた部屋がざっと10ほどある。これも植民地支配の影響で、私たちの数年がかりの研究テーマ)