彙報的備忘録2 漁村のこと

東北地方太平洋沖地震 緊急被害状況報告  石巻」(宮城大学 竹内泰他)より:

 町の主産業である漁業や工業の施設規模が、巨大であったことは、石巻市の市財政や住民の生活を大きく支えてきたともいえるが、機能が停止した現在、そのそれぞれの産業復興の展望が見いだせないうちは、町の復興も遠い。
 また、町のなかには歴史的建造物も残っており、それら「都市の記憶」を保護し、再建する試みも、町の復興にとっては重要な要素となる。
 施設が巨大であることから、業界間・企業間の相互支援を行わない限りは、復興への道はさらに遠くなるのではないか。被災者を被災者のままにしておかないためにも、産業の復興が急務であり、業界・産業ごとの相互支援のための法整備検討も必要。

日本建築学会の緊急支援情報アーカイブTohokuEQ2011のid=157のレポート。DLして読める。

 石巻は大きいが、沿岸地域には小漁村もたくさんある。沿岸部被災地域の漁港・漁村の産業と生活の歴史をどう捉えるかが問われる。その意味でも読みたいと思っていた資料のコピーが都市計画コンサル勤務の知人から届いた(偶然の必然です、ありがとう)。石田頼房他『新建築学大系 18 集落計画』(彰国社・1986)所収の故・地井昭夫先生(広島大学/執筆時は金沢大学)執筆分のうち、「4.6 漁村計画と政策の沿革」の部分。内容はきわめて興味深く、関連資料へのアクセスにもよい。さっそく上記の竹内泰さんにも転送。
 1933年3月の三陸津波(倒壊・流出家屋6,573棟、死者・行方不明2,965人)の際、「防波堤と高所移転」を中心とする被災集落の復興計画がつくられた(いまTVにもよく取り上げられる大槌町など)。これが我が国初の本格的な「漁村集落計画」になる。自治体だけでなく産業組合・漁業組合等を核とする互助が機能したことも分かる。「高所移転」は、しかし港と船に密着した漁家の生活になじまず、徐々に旧地に戻る者が出はじめ、集落が「旧態を再現するのに10年の歳月は要しなかった」という。これが1960年のチリ地震津波で再び大被害を被るのだが、以後、防波堤の嵩上げという「防波堤主義」が防浪(防波)計画の主軸となるようだ。
 これを今回の災害に照らしてどう読むかは易しい問題ではないと思う。これ以上の「嵩上げ」は、土地と生活の関係のありようとしてはあまりにいびつな気がするし、高所移転は今回の場合は(場所によるが)事実上漁家の廃業を追認して限界集落を生むことを意味しかねない気もする。とはいえ、国レベルの巨大な広域計画がドンと持ち込まれる前に、上記引用で竹内さんが書いている、現場レベルでの産業の段階的な再生(たぶん広域的な漁協間ネットワークによる支援とか)を描かないと、無くならなくてよいものまで無くなってしまうのではないか(cf.笹川陽平日本財団が動き始めましたね)。牧紀男さんの移動論でいえば、どんな移動を肯定し、どんな移動を積極的に拒むかという問いでもあるんだろう。
 ところで地井先生の文章にもちらっと出てくる神代雄一郎研究室のデザインサーヴェイはじめ、漁村のサーヴェイは実は決して少なくない。巨大な力に抵抗する論理を(意匠論的に)見つけようとした神代先生の試みを再読する作業はやる。