ホーチミン・シティの華人たち

12月24〜28日の短い滞在だったが、ホーチミン市華人たちの住まいをぶっつけでかなり見せてもらった。出会った華人たちのなかから3人ほど紹介してみる。

Mさん。本籍は中国広東省鶴山。1940年代前半、国共内線の激化にともない曾祖父が祖父たちに避難を指示。祖父家族はフランス統治下のサイゴン華人街チョロンに住みつく。Mさんは1965年にチョロンで生まれた。米軍の北爆がはじまった年だ。1975年、10才のときベトナムの解放=統一が成り、サイゴンホーチミンと改称されて社会主義国家に飲み込まれた。曾祖父は共産主義を恐れて家族を国外へ出したはずだったのに、あろうことか移住先もまた共産主義国になったわけだが、曾祖父はそれを知ることはなかった。彼自身は故郷に残り、文革のとき自分の邸宅を追い出され付属の柴小屋に寝るようになったが耐えきれずに自害していたからである。チョロンではフランス人が所有していた里弄型住宅地の一戸に住んでいたが、統一とともにすべてが国有化された。3年後のある夜、同じ住宅地に軍人が押し掛けて来て比較的裕福な家の戸を叩き、その家族は農村の開拓に従事させられた。北米大陸その他に逃げていった人々、途中で死んだ人も多い。空き家になった部屋にはベトナム人、とくに革命に貢献したと讃えられる家族が移住してきた。華人ばかりの街区だったが、いまや30%ほどになってしまった。

Sさん。本籍は中国福建省泉州。1943年生。1989年にチョロンに移住。そこに住んでいた男性に嫁いできたのである。夫の姉夫妻がもともとその家の持ち主だったのだが、共産主義体制を嫌ってカナダに移住したその後におさまったかたちである。彼女はもともと普通語(北京語)と福建語(閩南語)を話せたが、この20年のうちに広東語とベトナム語を覚えた。もともと福建系の資本で開発された里弄型住宅地だが、統一後の混乱のなかで広東人(潮州人)、ベトナム人が増えたのである。Sさんによると、この6〜7年でこの街区はずいぶん変わったという。政府が不動産の払い下げをはじめてから、この街区はほぼ全員が土地建物を所有しており、経済状況もよくなって次々に更新しているのだ。Sさんは何も言っていなかったが、この街区は5年ほど前に日本人が実測調査をしたことがある。東大(大田省一さんら)と法政大(高村雅彦さんら)の合同調査だ。おそらくその調査の後も路地裏の景観はかなり変化しているのだろう。

Hさん。彼は父親のパスポートを見せてくれた。1954年に発行された「中華民国護照」(護照はパスポートの意)である。本籍は福建省安南。現住所は「Rue Foukien, Cholon」(チョロン福建通)。自分は1962年生まれ。親父の家は共産主義ベトナム人政府に奪われた、というと語弊があるから「接管」と正確に言うべきだなと彼。Hさんは福建語と北京語の他に、習った英語を流暢に話す。姉がイギリスでビジネスに成功しており、その送金で建て替えた家が2年前のクリスマスに竣工した。その前はフランス植民地時代に建てられた平屋の里弄型住宅だったが、新しい家は鉄筋コンクリート造の4層。奥深い敷地の中央に階段室があり、前後に寝室が振り分けられる。ロンドンにいる姉のためにリザーブされた寝室は一番よいところにあり、この部屋にだけ空調がついているが、姉はいないから皆この部屋で過ごすことが多いという。

さて我々は12月28日夜の寝台列車にのり、16時間ほどかけて29日夕方にホアインに到着。今日(29日)はホイアンの町屋をじっくり観察した。昭和女子大チームの報告書がすばらしい。僕らは僕らの関心に基づいて実測+インタビュー。衝撃の事実を知りうろたえています。