親父たちの家が建ったとき、建築家はいなかった。

うちの奥さんは今日(11/27)実施の5大市長選挙のため昨日から明日まで台北帰省中。そろそろ開票結果も出る頃だと思うが・・・どうやら期待したほど票はのびなかったようだ。得票総数でいえば伸びているのだが、ポストの数でみるかぎりは現状を守られた格好(どっらを支持してるかはまあ分かる人には分かるでしょう)。僕は今日昼間は入試担当のため大学。橋本健二先生・初田香成さんらの闇市研究会には今日も参加できず。なかなか予定が合わずすみません・・・(学生たちがお世話になります+次こそは出席します)。帰宅して子どもたちと3人でカレーつくる。これまでのなかでは最高の出来であった。今はグランプリシリーズをTVで見てる。子どもたちが寝たら原稿書くぞ。
唐突だが、僕の両親が30年前に建てた家は近所の工務店に頼み、建前(上棟)の後は大工さんが1人でほとんど全部つくった。そのことに10才だった僕はぼんやりとだが驚いた。僕はたぶん新築の現場をずっと見ていたが、とくにはっきり思い出せるのは、現場に潜り込んで1階の天井裏を散歩するのが好きだったことで、一度天井板を踏み抜いてしまったことがあるが、翌日恐る恐る確かめにいったら何事もなかったかのように直っていた。ずいぶん後になって僕が話すまで両親はその小さな事件のことも僕の常習的徘徊についてもまったく知らなかったようだった。寡黙で優しい大工さんだった。
この家が建つのに、法的に必要だから建築士はいたが、建築家を見た覚えはない。建築家はいなくても建物は建つ。製作者(ビルダー)さえいればよいのだ。ルドフスキーの衝撃(MOMAでの「建築家なしの建築」展)は1964年だった。では、建築家はなぜ、いつ、いかにして、いかなる自らを立てうるのだろうか。しかしながら、日本の戦後建築史をたどると、所与の公式的な「建築家」像をいかに立てるかばかりが議論されて70年代にまで至っている。コールハースによる転回(『デリリアス・ニューヨーク』)は1978年、伊東豊雄のそれ(「消費の海に浸らずして新しい建築はない」)は1989年。いずれも建築論の転回だが、それはむしろ建築家像の転回だったのである。まあこのへんは今晩そのまま書くわけではないんだけど。