神と人:明治神宮をめぐる時空間

20101023_MeijiJingu.001
昨日10月23日(土)、明治神宮社務所講堂にてシンポジウム「明治神宮造営をめぐる人々―近代神社における環境形成の転換点―」が開かれた。私と畔上直樹さん、藤田大誠さんの3名が発題者だったのだが、とにかくコメンテーターの山口輝臣氏がかっこよすぎた。『明治国家と宗教』『明治神宮の出現』の著者として知られる山口氏の包容力と切れ味を兼ね備えたコメントでシンポジウムを引き締めていただいた。明治神宮史研究会の一員としては、1年間の濃密な議論にむしろ引きずられすぎたきらいがあり、短時間で何をどう伝えどういう議論を膨らませるかの戦略に欠けたと反省中。色々と悔やまれるなあ・・・。
2020年は明治神宮鎮座100周年。明治神宮史研究会は今後も継続する。昨夜の懇親会時にまた新メンバーを迎えた。山口先生おっしゃるように明治神宮エライというのが我々の目的ではないが、明治神宮を通さなければ分からないことがあまりにも多いというのも事実。視点を複層化・多角化しながら、各々の核心(何が問題なのか)を再構築することがひとまず私たちの課題だと思う。
山口氏に端的にこう問われた、「なぜ伊東忠太は自身の進化論・様式論を明治神宮であれほどあっさりと変えたのか(変ええたのか)、それによって何が変わったのか」。第一次神社奉祀調査会(1913年12月〜)のテーブルについた政府、軍、議会、実業界の要人たちが建築について何を話し合ったか、第二次神社奉祀調査会(1914年4月〜)に専門家の1人として呼ばれた伊東忠太はそこでどんな役割を課せられたか。このあたりは実証的に掘り起こせる余地がいくらかあるかもしれないが、いずれにせよ「様式」にはその建築の character や、それを欲する人々の taste を何らかのかたちで表象する、物語る、連想させる、といった働きがあるとすれば、そして、多くの関係者の議論や国民的な世論において明治神宮に期待された character や taste が決して単純に統一できるものでなく多数的であったとすれば、どんな特定の答えも相対性を免れない。忠太が直前まで主張していた新様式創出論も、施主が1人ならば彼が納得できる形を案出できたかもしれないが、明治神宮では(近代の神社造営の歴史のなかで初めて)いわば「無数の施主」あるいは「国民という施主」に話を通さねばならなかった。だからこそ、「国民様式」創出のイデオローグたる忠太にとって明治神宮は絶好のチャンスであったが、ふたを開けてみれば形態と内容との「適合性の最大化」ではなく、「不適合性の最小化」こそが求められていることを忠太は知ることになっただろう。どんな固有の答えもその固有性によってむしろ容易に相対化されてしまうような場においては、むしろ固有性から最も遠い回答が有効である。かくして、「最も普通」の様式たる流造が選ばれ、忠太はその妥当性を説明する責任すら(当然)負い、そして以後死ぬまで「神社不変論」を説き続けることになる。(ちなみに・・・のちに忠太の伝記を書く岸田日出刀は、忠太に転向などなかったかのように「神社不変論」は伊東先生の信念であったなどと言うが、これはモダニズムのプロデューサーたる岸田の確信犯的振る舞いかもしれない。)
こうして神社においては、20世紀的モダニズムイデオロギーではなく、社会の近代的編成こそが19世紀的な「様式」を後退させることになったと言いうる可能性がある。そこに、鎮守の森を支える学知・技術の転換(生態学的境内林観という恐るべき理念の登場)や、それを後押しした都市化、中央と地方の関係・・・といったものがぜんぶ絡んでいただろう。もちろん、忠太がそのあたりを自覚していたとは思えず、彼はやはり様式一覧表のなかから流造を選択した妥当性を19世紀的に説明したのだが、以後の内務省=角南隆体制では本殿様式は(新規造営ならば)流造とすることが暗黙の前提となり、様式論は前景から後退するどころかまったく語られなくなる。このことと、彼らが機能主義的な系列的プランニングによって神社建築の開発にいそしんだこととはおそらくコインの表裏の関係だろう。この点で明治神宮は、20世紀的モダニズムへと接続しうる論理(形態の沈黙)が19世紀的モダンというコップからあふれ出るかのように現れてしまった場であり、それを自覚的に展開したのは角南以降とみてよい。ではなぜ角南はそれをいともたやすく獲得しえたのだろうか(この点で、忠太と角南の「あいだ」の大江新太郎がなかなか面白い可能性があるので今後検討の予定)。
これが「神社」をめぐる議論であることに注意するなら、重要なのは、角南らが、伊東忠太においては固有性=相対性=作為性の領域にあった神社を、人の作為が及ばないような、恣意性の排除された、自動的で生成的な領域に移動させたことである(作為がなくなるわけではないが、それを沈める論理が獲得されていたということ)。昭和以降、神社は「作品」ではなくなり、神社の設計者は「作家」ではなくなった。これもまた「神と人」の問題のひとつのあり方だろう。つまり近代日本においてパブリックでオフィシャル、かつノン・オプショナルな位置づけを与えられた「神社」であればこそ、作品性・作家性のコントロールは大きな意義を持ち、また非常にうまく機能した。角南の弟子筋といってよい技術者の裾野もまた実に広く、実態の方も着実につくり変えられてきたが、大局的には今も神社設計のあり方は角南以降変わらないし、私たちもそこが自分たちの踏み込める世界だとはつゆほども思わないのである。