牧紀男氏「移動する人々」:City Learns

昨日(1014 Thu.)、私どもの都市発生学研究会としては第3回目となる公開研究会を開いた。講演は牧紀男氏(京都大学防災研究所)。アチェから帰ったばかりで来週はオーストラリアだって。すごいなあ。
第一に何よりありがたかったのは、牧さんが「新作落語」をつくってきてくれたこと(落語じゃないですよ、もちろん)。これは嬉しいのです、それだけでまず。しかも新作なのにご本人から「ネタばれOK」のお墨付きをいただいたので下にちょっと内容紹介します。
第二に、研究会を通じて生まれたアイディアがあったらしいこと。これまた嬉しい。
第三に、学生たちとちゃんと飲んでくれたこと。ありがとうございます。

以下、御講演の紹介と感想。
まず簡潔に言えば、牧さんの話が面白いのは、フィールドワークに裏付けられた、現実に対して開かれた、とても素朴な問いを、つねに当の「防災」そのものに差し向けているからである。モノや社会との直接的接触があるから問題構成を問い直せるのだが、同時に、問題構成を問い直そうとする姿勢を欠いては、フィールドワークそのものが活性を失う。
災害復興の難題は、まず「復興とは何か」である。「復興」が課題となった瞬間、「どうなれば復興といえるのか」という問いこそが解かれるべき問題として生じているはずなのだが、それが一般には顕在化しないのは「もとの状態に戻す」ことが復興であると当然視されているからだ。
牧さんの問いは、「元に戻せ」という脅迫は、元来の都市や集落のもっているダイナミズムからすれば、実は不自然なのではないか、ということだ。阪神アチェ、パプア・ニューギニアニュー・オリンズ中越・・・どこでも災害後には人々が相当の割合で移動する。面白いことに、地縁コミュニティの強い弱いにかかわらず、人は移動するという。
多くの社会は、地縁コミュニティとともに別種のネットワークが重層しているがゆえに生き生きと動いている。たとえばクラン(氏族)のコネクションがあり、その線に沿って出稼ぎや寄宿が可能になっていたりする。災害時にそれが活用されたとしても不思議でない。さらに個人であっても自由に移動できるだけの能力と経済の仕組みがあればよいかもしれない。阪神淡路大震災後、京都の高級ホテルに住んでいた人々が相当いたという話もあり、また長期的に見ても阪神間の人口分布はかなり変わったらしい。もちろん移動出来ない人も少なくないが、問題はすべての人を「元に戻す」という暗黙の命題だ。首都圏に大震災が来れば阪神のときのような(大局的には見事だったという他ない)マネジメントは成立しないだろう。「元に戻せ」が前提にあることで、「復興」は過大な負担を背負ってしまう。
災害後、地縁コミュニティを解体してでも、別のネットを使って人は新しい定常状態をつくり出す。牧さんの言葉でいえば、「災害前とは違う次元での新たな安定を迎えた」とみなされるとき、それが復興が成るということだ。僕たちの研究室では今年前期にベイトソンのコミュニケーション理論なんかを勉強していたので、これに膝を打った学生は多かったはずだ。さらに、都市は学ぶということ。災害や都市改造といった「外力」が都市に働くと、都市はその「性質=自然(nature)」を発揮して自身の傷を治癒する、といった外在的な相互関係ではない。外力による破壊と再生の経験は、都市の「性質」をその都度変えてゆくだろう。同種の経験が繰り返されれば、反応はパタン化され強化されるだろうが、そのパタンはすでに都市の「性質」の一部であろう。この種の性質は、もちろん当事者である「人」に分有されているが、しかし集合(無意識)のレベルで上書き保存と読み出しが行われていると僕は思う。City Learns ですな。
で、日本が「元へ戻せ」になってしまった歴史的背景のひとつに、おそらく戦後の持ち家信仰の問題があるだろうというのが、研究会で得られた新しい仮説のひとつだ。これは目から鱗。そこにコミュニティ信仰もくっついてきたかもしれない、という議論になった。(災害から離れて考えてみても)団地をつくったあと実態としては(子供は移動するので)あっという間に高齢化・空洞化してしまう・・・といったことが「問題」視される。しかし、それは偽の問題なのかもしれない。強固な仮定が生み出してしまう「問題」だったのではないかということだ。一方で、かつて反復的に加えられていた外力が、長時間にわたって働かなかったこと、かつ、その間に建設技術と経済的圧力が急激に高度化したことも見据えておく必要がある。戦後のプロセスのなかで、それ以前とは異質な(ある意味では逆向きの)学習を日本の都市と専門学知は経験してきたのだろう。
いや実に色々な発見を与えられた講演だった。それに、牧さん自身も言っていたが、まったく違う場所にいると思っていたらいつの間にか僕も同じような問題を、かなり共通した回路で考えていることにあらためて気付き、驚き、また意を強くした。