fixture / fitting

三好登『土地・建物間の法的構成』(成文堂、2002)のつづき。
イギリスの場合も土地・建物は一体であり、さらにこれに付着して運命をともにするモノを fixture、そうでないモノを fitting(もしくは chattel )と区別する。前者は単独では動産であってもそれが付着している土地・建物と一体的に、つまり事実上は不動産として扱われる。では実際にはモノをどんな基準で fixture と fitting に判別するのか。
(1) 客観的基準:付着の程度をみる。壊さなければ分離できないような付着の仕方をしていれば、土地・建物の一部とみなされる。逆に、たとえばコンクリートの基礎の上にボルト止めされたプレハブの温室は fixture ではない。
(2) 主観的基準:付着の目的が土地・建物の基本的性質に及ぶかどうかをみる。たとえば映画館の椅子はそれなしには映画館が映画館ではなくなってしまうのでたとえボルド止めであっても fixture である。
むろん判断は個別ケースによるので、膨大な判例が集積され、それに照らした判断がまた積み重ねられていくといった性質のものになるようだ(その都度、複数の事案をコンテクスト付きで比較するようなメタレベルでの架橋or絶縁が行われるのだろう)。しかし面白いことに、上の事例では温室は土地と分離できるが、椅子は映画館の建物とともに土地と一体であるという判断が導かれている。一見したところ奇妙な捻れを呈しているようだが、両者のコンテクストが異なるのなら実は矛盾でも何でもない。つまり、建築・家具といったカテゴリーに対して、財産に関する法的構成はそれを横断してしまうのである。これは色々思考実験ができそうだ。
が、それはさておき、実際のところモービル・ホームやプレハブ住宅は土地とは切れた動産として扱われてきた。「移動させることのできるものは、一時的に水道管や電線が接続されていても動産とみなされる」というわけだ。この眼で日本の家屋を見たらエライことになるぞ。ぜーんぶ fitting だとも言えなくはないではないか。そして、世界は意外にコンシステントにできていることになるなあ(たぶんこのコンシステンシーの一端は明治以降の日本の法学者たちが世界を論理的に架橋したことから来るのでせう)。