superficies solo cedit
水曜の夜にマック(白いMacBook)が起動しなくなり、翌日持ち込んだショップからの連絡でハードディスクの死亡と判明(データ救出を依頼)。その翌日は自分自身が風邪を引き、今日も駄目。このところの無理がたたったかな。今日は重いまぶたを何とか半開きにして虚ろな頭で三好登『土地・建物間の法的構成』(成文堂、2002)を読み進める。
日本では周知のとおり土地と建物がそれぞれ別個に権利の客体(対象)となるが、ヨーロッパでは歴史的に土地と建物は一体的だといわれる。その規範的淵源とされるのが古代ローマの次のアフォリズムである。いわく。" superficies solo cedit "(地上物は土地に従う)。
土地と建物の「関係」は法的にいかに「構成」されるか。そこに客体の属性とこれに対する人々の意識が反映されるとすれば、やはり石造の世界と木造の世界では「関係」は異なってこざるをえない、と著者はいう。僕自身は、日本の住まいや都市のやわらかい特質を論じるのにあやふやな「木造文化論」みたいなものはあまり役に立たないと思っていて、災害復興とか区画整理とか、あるいは家屋の移動可能性(曳家・移築)とこれに照応する技術・制度とかいったオブジェト・レベルに踏みとどまった議論をまだまだ広げていかなければいけないと思っているのだが、しかし法学者が権利の対象としての建物の属性をどう語っているかは興味あるところではある。
著者の三好氏は、古代ローマの人々にとって家屋は物理的にきわめて大地に類似していて、明確に区別できるものではなかっただろうという。石や煉瓦をコンクリート(=土・石灰・水)で固める工法、中庭型のプラン、地床(earth floor)…。つまり同じ材質がたまたま家の姿に盛り上がって秩序づけられているようなもので、崩れ落ちればすべてが同じ大地に帰る。その点、日本あるいはイギリス、ドイツ等の中世(中世初期)の家屋は木造であり、土地と建物とは別個のものとして観念されやすい。一方、今日の鉄やガラスの建物もまた、あまりにも大地とは無縁なものである。
うむ、なるほど、とも思うが、僕が重要だと思うのは、やはりこのような異なる性質をもった建物が、壊れたり燃えたり、奪われたり売られたり、あるいは分割されたり移動させられたりすることによって、土地・建物の「関係」が揺さぶられ、社会的に問い直される局面である。そうしたダイナミックな局面において建物の性質や人々の意識もものをいう、と考えたい。
ヨーロッパの文脈でいえば、著者も言うように、実際に土地と建物の「関係」にある論理的「構成」が必要になるのは、Aの所有地上にBが建物を建てる事態、つまり土地(これがないと建物は建たないのだが)に複数の主体が登場し、両者の関係をどう「規律」するかという問題が浮上するときである。古代ローマでは、都市化の圧力が高まり住宅難がおこると、公有地に家を建てることを認めざるをえず、しかし建物の私有を認めれば公有地の保全が危うくなるといった局面において、" superficies solo cedit " の原則が機能したらしい。この場合、土地所有者である政府は建設費を払わずに公有住宅を手に入れ、建設者は借家人になったわけだ。「土地−建物」関係が、「公−私」関係の規律化においてまず要請されたことは検討に値するだろう。