都市史特論12/自然環境と構築環境

 話題はソウルの清渓川(チョンゲチョン)再生事業。現大統領・李明博の市長時代のプロジェクトである。
 李朝時代、日本植民地時代、朝鮮戦争時代、高度成長期、そして21世紀。こうして通時的に清渓川の景観と社会的位置を辿ってゆくと、この川の変化、とりわけ大戦後のその目まぐるしさに驚かされる。朝鮮戦争の難民がソウルに押し寄せて川辺に木造3層バラックの長大なスクォッター集落をつくってしまったかと思えば、その前方の川床からニョキニョキ生え出てきたコンクリートの橋脚によって川に蓋が被せられてスクォッターは一掃され(壮大なスラム・クリアランスだったはずなのだが記録は存在するのだろうか)、かわりに形成された電気や繊維の零細店舗群も今回の再生事業で再び追い出されるようにして転出した。今日、都心のオアシスのような川の両岸には、すでに超高層オフィスビル群の建設が動き始めている。誰にでも分かることだが、これは明白な地上げ事業であって、グローバル企業の拠点オフィスを獲得しようとする世界的な都市間戦争である。そのために“自然(的)環境”が利用された。
 都市史の強みは、この著名な事業の先進的なお題目の数々とか、首長の実行力とかいったものの背後でこの場を構造づけている何か、それはこの場が体現してきた何らかの変化のパタンといったものに現れているはずなのだが、そのなかでこの事業の特質を批判的に検討できることにある。つまり清渓川の目まぐるしい速度を、都市ソウルの速度と見るのである。
 端的に言って、清渓川は都市ソウルのど真ん中に口を開けた穴のようなものだ。それは、たとえばヨーロッパ都市の広場が市民共同体(「私」の集合体)の所有物であるような帰属のあり方とは違っている。私たちがいう官有地は私有の排除が暗黙に宣言された「誰のものでもない場所」である。とりわけ、川、山、緑地といった自然的環境は我々の都市の穴だ。それは穴であるがゆえにさまざまな「行き場のないもの」を飲み込む、つまり都市にかかる圧力を吸収する場となる。スクォッターも、道路も、零細な問屋集積も、グローバル企業の陣取る超高層オフィスも。
 しかし、穴を穴たらしめている(私有を禁じる)権力は、飲み込んだものの吐き出しを命ずることができる(自らが投げ込んだものも含めて)。そうでなければ、その場の穴としての性質は死んでしまうからだ。その意味では、現在の「人工の川」(清渓川)は、かつての高架道路と同様に、この場に被せられた構造物なのであって、いつかまた時機が来れば引きはがせるものと考えておく方が正確な理解であるような気がする。
 都市というのが実は「構築/自然」の区別をつくり出すことによって、自らの変化の速度に堪える仕組みなのだとしたら、この区別を解きほぐす作業は都市史の重要課題である。前回は、災害「後」を題材として、構築環境を、発生的メカニズムをもつ何か(生き物)と捉える方向性を示した。逆に今回は、都市のなかの自然環境を、欲望や意図とともにある構築物として捉える方向性を頑張って話したつもり。その両方の戦略を意図的に開発する必要があるのではないかとつねづね考える。
 都市のなかには、構築されたのにもかかわらず「自然的」であると信じられている領域がたくさんある。いや、信念というのではなくて、ただ漠然と暗黙のうちに人の関知しない自生的・自立的な何ものかとして向こう側に放り出されているということだろう。
 たとえば森。明治神宮は大正期の樹林創出プロジェクトだったが、そう言われると学生たちはハッとする。ちなみにこのときに集結した造園・造林技術者たちは都市公園のデザイナーでもある。
 ついでにいうと、神社の場合はその社殿すら「自然」の側に放り出されている。近代の神社建築の研究が進まないのは、国家神道時代へのタブー意識によるものだと僕もずっと思っていたが、それはやや安易であったと思うようになった。つまり、近代(とくに昭和以降)の神社における建築・造林の歩みが、実は神社を「自然」の側へ送り込む巨大な努力であったとしたら? 角南隆以下、昭和の技術者たちはこれに成功してしまった気がする。戦争を挟んで1930〜60年代の間に。これはたぶんモダニズムのある側面がもつ重要な問題だ。そんなの昔から神社はそういうもんなんじゃないの?と訝る人もいるかもしれないが、少なくとも伊東忠太は神社をそんなふうに考えてはいなかったし、近世にも多様な社殿が試みられていた。
 ついつい、余談に力が入りすぎました。失礼。