植民地下のヴァナキュラーな住まいを知るには?

1230 Tue. 調査5日目は台南県白河地政事務所を訪ねる。地政事務所は不動産に関する行政事務を扱う役所で、土地の測量、地籍図の作成管理、土地や建物の登記、地価査定などを行なっている。以前に彰化という都市を調べたときは地籍図(公図)を主たる資料として活用したので、地籍図というものの形態や機能や作成方法などについて彰化市地政事務所や国の土地測量局などで色々教えていただいた(『彰化一九〇六年』アセテート)。
その後、1年半ほど前に久しぶりに彰化市地政事務所を訪ねて日本植民地時代の諸資料を見せていただいたことがあるのだが、建物登記簿というのがかなり面白いことに気づいた。
いま進めている研究では、台湾建築史ではほぼ完全に無視されているヴァナキュラーな庶民住宅の様相を明らかにしようとしているのだが、フィールドワーク、つまり現存するモノと生きている人の記憶から明らかにできるのはせいぜい1920年前後までであって、つまり植民地後期以降に限られてしまう。植民地前期に遡るための手がかりになりうるのは、ひとつは地震後の被災調査である。たとえば台南南部の嘉義では、1904年と1906年と1941年と・・・というように大きな地震が頻発しているのだが、1904年の被災調査は若き日の佐野利器が行なっていて、数量的な把握はないものの、庶民住宅は竹造と日干煉瓦造がほとんどであるとし、スケッチも残している。これがきわめて貴重な資料となっているのが実情だ。
しかし、建物登記簿をあたればかなり実相に近づけるのではないかというのが今日の調査のきっかけのひとつ。いまひとつは今年8月の白河調査のとき陳正哲先生・角南聡一郎先生と学生たちと街で羊肉の鍋をつついていたら横のテーブルで飲んでいたのが地政事務所の主任さんだったという縁。ちょうどオリンピックの台湾−日本戦(野球)をTVで観戦していて、店員さんや他の客たちも含めてえらく盛り上がったのだった(日本が勝ちそうだったので早めに宿に引き上げた)。
植民地時代の建物登記は、所有者の義務ではなく、抵当権設定などのために申請して登記してもらうという性質のもの。したがって全数的な把握はまったく不可能だが、一定の地域で、時期によって登記される建物の内容がどう変わってゆくかはたどることができる。たとえば「竹造茅葺き平屋建一棟、建坪拾二坪七合五勺」のような記載を時期を追ってみてゆけば変化の傾向はみられるはずで、そこに植民地支配の影響をうかがうことは不可能ではなかろう。はたしてそれは日本の庶民住宅の近代史とパラレルなのか、それとも・・・。