都市史特論04/計画された都市から、生きられた都市へ

1023 まずは都城論のおさらいから。
(1)コスモロジーは天〜身体の相似学であり、都市にもダイアグラム的形態を要求する。
(2)儀礼は群衆(知覚する身体)に対して皇帝の権威を表象するバロック的空間演出を要求する。
(3)機能、つまり皇帝・貴族・官人らをその官位に応じて収容する機能は、土地のシステム的分配を要求する。
(4)技術(計画の技術、建設の技術、維持の技術)は、それら要求を拘束的に実現する。
 「都城」の形態は、これらの複合として決定される。ちなみに(1)が勝ったのが中央宮闕型(周礼モデル、北京、開封藤原京etc)。(2)が勝つと北辺宮闕型(随唐長安、ソウル、平城京平安京etc)となって、朱雀大路が長大な儀礼空間になる。
こうした論理のなかで建設された平安京は、しかし平安後期には早くもさまざまな側面で解体しはじめ、戦国期には当初からは予想できない驚くべき形態をとるに至っていた。授業ではその様相を現象に即して辿った後、「町家の生成」について考えた(町家は戦国期には相当完成された姿になっているが、平安末にはもう原初的形態が一般化していた)。

町家(町屋)は、商業の発達が要請した店舗の常設化か、はたまた農家を原型として都市型に展開したものか。前者が機能主義的幻想であり、後者が進化論的幻想であることを指摘してしまったのが、野口徹『中世京都の町屋』(東大出版会)である。伊藤毅先生が言うように、町家の規定要因は「接道性+沿道性」である、つまり面路型でずらりと列をつくるという形態の側から規定するより仕方ない。とすれば僧坊のような原型は昔からあるし、平安京の道路境界にあった築地塀をそうした建築物によって置換すれば町家ができるということになる。問題はそれを誰がどうやったかということだが、おそらくは供給とスクウォッターの両面を包含できる議論が望ましいのだろう。たとえば地主による集合住宅供給が出発点であったとしても、いつしか売買等で所有が分断され、更新(建替え)が個別的に進んだり、その所有区分がブロックの内奥部へ向かって延伸されたりすれば、私たちになじみ深い町屋の市街地が形成される。地震・火災や戦乱などの災害がつくり出す生成の実験場で考えるのもひとつの戦略で、実際そういう研究も行われている。僕はもちろん中世都市史の研究者ではないが、台湾都市の自己再組織化について考えたことがあって(『彰化一九〇六年』アセテート)、その時は植民地権力による都市改造という一種の災害に注目したと言ってもよい。その時思ったのは、町家はその確立後も原初の生成的特質を遺伝子のように組み込んでいて、それはいつでもそこいらで反復的に発現してきたのではないかということだった。
 もうひとつ、授業をやってみてあらためて気づいたことがある。平安後期の原初的町家がすでに土間と揚床の二部構成になっていることだ。「接道+沿道」をもって町家とするとして、その萌芽の最初期から「土間+揚床」という形態が備わっていたことは、はたして「自然」なことなのだろうか。