近代建築史11/コロニアルと擬洋風

0619
さあいよいよ日本です。
まず前提としての地球全体の見取り図。それから徐々に眼を下ろしてゆくと・・・ここは19世紀中頃の台湾北部は大渓という街。淡水河を舟で遡れる限界の地だ。ここに産する材木・樟脳・茶などは舟に積まれて川を下り、台北を通り過ぎると淡水という港に至る。ここから舟は海へ出て、対岸の福州や厦門へ、さらに南へ進めば香港、シンガポール、ペナンなど、さらにはバタビアジャカルタ)へ行けるが、逆に北上すれば杭州や上海、そして長崎にたどりつく。東南アジア・東アジアの海域世界は、オランダやイギリスなどによって、また華僑やブギス人たち、その他のローカルな住民たちによって、すっかり結びつけられてしまっており、この世界はさらに列強の本国へとつながっている。海と川で結ばれたこうしたグローバル・ネットワークのノードやターミナルをすべて港市 port city と呼ぼう。日本はこうした意味の port city を長崎(出島)に限定してコントロールしてきたが、ついに開国要求に屈し、治外法権の port city =居留地を建設せざるをえなくなる。
居留地は不思議な緊張感と開放感に満ちた場所だったろう。そこには西洋人たちと様々な出自の労働者たち、華僑、そして日本人も集まってくる。長い鎖国の後に初めて日本人が出会った「西洋の都市・建築」は、(実は)西洋人たちが南アジア・東南アジアなどの植民地支配の経験のなかで次第に確立してきたコロニアルな景観に他ならなかった。そこへ引き寄せられた大工棟梁たちが間もなく生み出したのが「擬洋風建築」だ(→これ以降の授業はもう馬鹿ウケでした)。

*(ちょっと専門的なつぶやき)1872年にはじまる銀座煉瓦街は、明治政府の最初の国家的都市建設事業だったが、これは(居留地どころか)自らの首都の顔を、コロニアルな景観につくり変えるという何とも皮肉めいた捩じれたプロジェクトだった。設計者の英人Thomas Watersは流れ者的・萬屋的な技術者で、来日前には香港にいた。ベランダウェイ(アーケード状歩廊)を持つその都市型店舗住宅は、イギリスの田舎町風だったかもしれないが、同時にシンガポール総督ラッフルズが1824年に定めたベランダウェイ付きショップハウスが以後東南アジア・東アジアを席巻していった、その系譜にもつながっていたはずだ。1895年、日本は初めての植民地・台湾を獲得するが、そこにも自らベランダウェイ付きショップハウスを持ち出していく(法制化は1901年)。ついでに言うと、1920年代には中国国民党政権下の広東・福建諸都市でも同様のベランダ・ウェイが法制化され、雨後の筍のごとくショップハウスの町並みが出現する。こうして、19世紀的なコロニアルな都市建設が連鎖的に波及していく様を思い描くことができる。この約1世紀に及ぶ連鎖の全体像を早く誰か書いてください。