近代建築史04/産業革命は建築に何をもたらしたか。

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様式のスパイラル状の地位低下は、建築を本体/表層に分離し、様式を後者に閉じ込めていくプロセスだった。では、本体と表層の関係はそれ以後どのように推移していくのか。建築と建築論はどのように組み替えられていくのか。
というわけで、今日はこれからの展開のコンテクストを示唆するために、3つのエピソードを紹介してみる。

エピソード1=1889年、パリ万博会場にエッフェル塔竣工 ........ 工場でつくられた1万8千個の煉鉄の部品が組み上がる。リベット打ちは4人組で、簡易鍛冶場で真っ赤に熱したリベットを穴に通し、ハンマーで打って固めていった。エッフェルは若い頃に鉄道会社で橋梁設計等の経験を積んだのち、建設エンジニアリングの「エッフェル社」を設立していた。塔の実際の設計者は2人の社員で、そのひとり建築部長のS・ソーヴェストルはボザール出身。モーパサッサンら芸術家たちからは「技術屋の商業主義がパリを汚す」と罵られたが、中産階級の市民・国民はパリとノートルダムを見下ろす体験に熱狂した。

エピソード2=1858年、テムズ川がロンドン市民を恐怖の淵に陥れる ........ 酷い汚染と猛暑のため緑がかったコーヒー色のヘドロのようになったテムズが異臭を放ち、気絶する者も出た。あのゴシック・リヴァイヴァルの国会議事堂ですら、石灰水に浸したカーテンを窓に貼り付けることでどうにか議事を続けた。工場群に接してひしめく労働者の棟割長屋は陽の当たらない都市の谷間のようで、6帖大ほどの部屋に十数人が雑居し、100戸に1つあるかどうかという公衆便所には糞尿があふれていた。あらゆる排水がテムズに流れ込む。この頃の工業都市の平均寿命は15〜17才程度だった。

エピソード3=1837年、パリ少年感化院のための規則通過 ........ 18世紀までは身体刑、たとえば罪人の四肢に縛り付けた縄を馬に引かせ、それでもちぎれない手足の付け根にナタを入れる、というような処刑が都市中央の広場で市民が見守るなか行われていた。それがなくなるとともに、新しい考え方による新しい施設類型が普及していく。