[復刻]AAR Sep.2011, 台湾の都市発生学(聞き手:松島潤平+藤村龍至)

この記事、掲載サイトが事実上消滅してしまったので見れなくなっていました。松島さん、藤村さんの許諾をいただいたのでこの場であらためて公開させていただきます(おかしなところには手を入れました)。

AAR(Art and Architectural Review, Sep.,2011 special issue: Asian Global Cities)
台湾の「都市発生学」青井哲人(聞き手:松島潤平+藤村龍至

建築史家の青井哲人氏は、京都大学布野修司研究室を経てアジア都市史・住居史研究や植民都市・建築研究に携わっており、特に台湾における建築・都市の近現代の成り立ちと展開について詳細な研究を行っている。今回のインタビューでは、アノニマスな台湾建築の特徴を教授いただきながら、台湾独特の都市構成とそのグローバルな展開について、都市発生学の見地から様々なお話をうかがった。


列壁都市論 −Wall to Wall Architecture−
松島|まずは台湾の建築・都市のタイポロジカルな特徴について教えていただけますでしょうか。

青井|現在も続いている台湾の都市の基本的なあり方として、「壁でできた都市」という点に注目して色々と調査を行っています。都市の特質を「列壁都市」、建築の特質を英語で「Wall to Wall Architecture」と造語で呼んでいます。

tissue_wutiaogang台湾は日本とずいぶん違って、現在も市街地の大部分は町屋型の建物で出来ているんですね。とにかくこの形式の根強いことが台湾の都市の特徴だと思います。町屋ひとつの間口を指して「一間」と数えるのですが、間口サイズは古いもので4,5m、新しいもので5,6mくらい、中庭を挟んで奥まで深く展開していて、平入りの屋根を連ねて延々と並んでいます。奥行は標準的には20-30m、長いものになると100mを超えるものもあります。必ずホールがあって廊下があって部屋があり、中庭を挟んで繰り返し、という形式です。構造は大体木造で、壁はレンガ、屋根は瓦葺です。狭い道を巡るとところどころ広場があって、広場があると廟(びょう)がある。街並は大体そんな構成になっています。
現代のRC造の町屋はディベロッパーがたとえば十間などの連棟形式で一気に建てます。このスタイルは1960年代から都市開発の典型としてディベロッパーの基本ツールになっています。郊外でも国道沿いにこれから市街化していくぞっていうところはディベロッパーが安く土地を買って十間とか二十間単位で建てていくんですね。建てたその後は一間単位が持ち主によって様々に更新されていくわけです。

ting_a_kahこれらの町屋はどれも「亭仔脚(ていしきゃく)」というピロティ的な空間を前面道路沿いに備えています。私有地ですが、通行人が往来出来るように開放されていて通り抜けができるようになっているわけです。これは本来、伝統的には無かった形式なんですが、清朝の末期に派遣された官僚が台北で実験的にやり始めたことを、日本の植民地政府が引き継いで法制化したものです。市街地の指定地域では規定の奥行と高さの亭仔脚を設けることを義務付ける形態規制が為されて、それが戦後もそのまま受け継がれて現在まで続いています。

1910年くらいまでは平屋、1920年代にはレンガ造で二層のものが増え、1930年代からだんだんとモダンスタイルになってきて三層が出現し、第二次大戦終戦後には四層が一般化します。今でもディベロッパーが作る連棟式町屋の標準はだいたい四層くらいです。プランの原理は基本的に以前と変わらず垂直に面積を増やしながら積み重なっていくので、四層の中庭というと本当にライトウェルという感じで、ズドンと抜ける空間になっています。
「透天」というのは天まで通るという意味で、土地に乗る建物の下から上まで全部をひとりのオーナーが所有する。平面方向は間口ごとに壁で仕切られており、それが所有境界そのものになっています。

藤村|壁は二重になっているのでしょうか。

青井|壁は原則的に1枚の共有壁になります。[補注:開発の単位が違うものが接するところは壁は2枚になるが、接着しているので事実上は1枚。近年では建て替え時に隙間を空けるのが一般的になりつつある。]

松島|建物は四層止まりになるから台湾の都市のスカイラインは低めなんですね。

青井|ビジネス街には高層・超高層が集中して建ちますが、基本的にそれ以外のところは二層〜五層くらいの建物がずっと連続していきますね。

藤村|更に大きなまとまりとして、街区レベルではどのような特徴が見られますか。

青井|基本的には市街地であれば街区は町屋で埋められます。ここではちょっと歴史的な特徴を紹介しましょう。
changhua_dualism台湾中部の彰化という街で、街区ブロックのなかを走る路地が、街区を超えてつながり、ネットワークをなしています。なぜこんなことが起こるのかと最初は不思議に思ったんですけれど、どうっていうことはなくて、本来それが古い道で元々これに町屋が張り付いていた。そこに日本植民地政府が上から重ねるように都市計画をしたんですね。これが市区改正というものですが、計画内容は日本のそれと全然違っています。

changhua_fragmentもともと日本の都市は中世京都以降、街を作っていく計画のシステムが確立していき、基盤整備と都市計画がはっきりとしたパタンを持っていて、江戸でもそういった基本的なパタンがある。東京の市区改正は基本的にはそれを拡幅する形で行われたんですが、台湾の場合は自然発生的に道が出来ては家が立ち並んで廟が建って --- といった状態だったので植民地官僚としてはとてもそれを拡幅してもまともな都市基盤など出来ないと考えたのではないかと思います。それで既存の街路網とはまったく無関係なグリッドをかぶせた。しかし、だからこそ、かつての街路網は「網」としての特性さえ残しているのです。暴力的な改造が、むしろ先行する形態をよく残すという関係に気づいたときはちょっと驚きました。

しかしこういう改造が行われれば、商店は新しい計画道路に面する土地へ移っていくので、都市組織の餡(アン)と皮(カワ)がプログラムレベルでは入れ替わってしまい、内側は居住区として寂れていく、というか安定状態になって残っていくという構図になっています。寺廟も街区の内側にたくさん残されます。破壊されるものに無関心、残るものにも無関心というような改造をしているんですね。最近もほとんど同じことをしていて、上から新たな計画を重ね、切り裂いていくことで都市の組織が出来上がっています。

以前、新しい道路で切断された箇所が具体的に建築レベルでどう解決されているのか、サンプルを集めるサーベイを学生が中心となって台南で行いました。つまり台南も彰化と同じように改造されたわけです。言ってみれば、土地-建物が道路によって切断されたとき、そこにどう継ぎ当て(パッチ)をしているか。切断への反応の様式みたいなものを調べたんですね。たとえば斜めにカットされた町屋では、バルコニーを三角形にしてそのズレを吸収している。どうってことないですが、そういうことに気づくと、この種の「鋭角町屋」は無数に見つかります。それから、道路によって土地が削られたけれども法規的に亭仔脚を取らなければいけないので一階がなくなってしまって二階へ梯子で登る状態のもの、使わなくなった路地をふさいで建てたマイクロ町屋。一階部分が亭仔脚しかないので「純粋亭仔脚」と学生たちは名づけましたが、これも意外にたくさんある。他にもいくつかの反応パタンが見られましたが、どんな切断のされ方をしても、町屋形式を実現することを諦めることはほとんどない。残骸のような土地を町屋に戻すための局地的な解決の痕跡が集積して、都市組織はみごとに再編され、縫合されています。そういう都市組織のダイナミズムのなかでの安定性(平衡)を見ようとしたサーヴェイです。

void_t_lところで町屋は隙間なく建っているので、ひとつ解体されるとそこだけセルの抜けたような風景になります。両側の壁は隣戸との共有癖なので絶対残る。いってみれば間口約5m、奥行き30m程度の立体的なインフラが残った状態になるんですね。そうすると次に行われる建築行為というのは、この立体インフラの中を充填することです。これが日本の都市との決定的な違いで、そもそも隣とのあいだに隙間がないので、基本的に建築は「地面とその上物」という捉え方でなくて、「地面+共有壁」がインフラとして常に残ってその間を充填する、ある種「造作」が建築行為そのものと考えられているのではないかと思うんですね。このために都市組織というのもどこで切断されようとも基本的な原理は保ったまま、パッチをしてみたり、角度を調整してみたり、90度方向転換してみたり、ということで柔軟に対応していくということになります。しかし、立体インフラという意味での共有壁が強固な持続性を持つことで、いわばデザインにあたって考慮しなければならない条件が非常に縮約されていることも重要です。

藤村|建築という単位が都市をつくる、という概念ではないんですね。

青井|日本では「都市型建築を確立しなければいけない」ということがしきりに言われますが、台湾においてはそもそも建物という独立した形の上物ユニットを並べていく発想が全く無い。我々はどうも都市を考える際に「建築」にとらわれすぎているような気がします。台湾都市は、コルビュジエの「これからの建築は機能というものを内側から吹きこんであげて内側から膨らんだものが建築の外形を作るんだ」というシャボン玉的建築の概念が全く無意味な世界ですね。コーリン・ロウが批判しているフリー・スタンディング・オブジェクトのような発想は全く無い。
walls既成市街地では稀なことですが、たまたま再開発か何かで面的に廃墟になってしまった地区を見たことがあります。屋根や床が崩れ落ちて何枚もの共有壁が静かに姿を現していました。その「造作部分が抜けた5mピッチの壁が道路に直交して並んでいる」という姿が、台湾都市の原イメージそのものなのではないかとそのとき思いました。それを「列壁都市」と言っているわけです。「Wall to Wall」というのはマックス・ウェーバーの『都市の本質』(The Nature of the City, 1921)という本にそういう言葉が出てくると教えてくれた人がいて、まあウェーバーを引くまでもないありふれた表現だとは思うのですが、「都市は家が密集していて、家はWall to Wall、壁を接して作られている」とありました。これをちょっと読み替えて、「都市では家は“壁から壁までの間に”作られる」、「Wall to Wallに建築が作られる」と考えて、フリースタンディングな建築とは違う「Wall to Wall Architecture」という言葉で都市〜建築を捉えてみようと考えました。

tectonicsこの関係は、さらに構法のレベルで補強されているようにも思います。K.フランプトンの『テクトニック・カルチャー』にならっていえば、伝統的な町屋の場合、壁はステレオトミクス(切石組積術)、造作的な部分は木で出来ていて軸組架構、つまりテクトニクス(結構術)になっている。ステレオトミクス的な壁がインフラとして残り続ける役割をしていて、柔軟に組み替えられる部分がテクトニクス的にできている、と構法的に考えると説明しやすいのではないかと思っています。


都市発生学の構想
青井|台湾の都市を調べていくなかで得た考え方ですが、台湾に限らず東京も、願わくばヨーロッパも含めて「都市発生学」という捉え方で分析していきたいと考えています。ある時間軸の中で都市組織を考える、つまり更新していく時間的なプロセスのなかに構法の問題や土地所有の問題を入れ込んだ形で、都市がどういう振る舞いをするか。都市は自らの何を編集し、何を保存しながら生き続け、変容していくのか。そんなことを実証的かつ理論的に考えたいと思っています。生物学における発生学のように、モノが持っている秩序が時間の中でどう展開して形を生成していくのかを知りたい。何らかの形態秩序がうまく咬み合っていれば都市組織は生命のように柔軟に生き続けられるはずです。そういう観点でサーベイしていきたいと考えています。
一般的には都市の調査や集落の調査をして論文を書くと、スタティックな空間構成の分析をモノグラフとして書いたものになりがちで、歴史的に見ていく場合も、ある時期にはこうだった、この時期にはこうだった、と輪切りの時間になってしまうのですが、そうではなくて、「ある時点でこうだったものが微細な時間の中でどう動いていくのか」という連続的展開(デベロップメント)を考えるのが大事だと思っています。生物学では「発生」(デベロップメント)というと、個体が生まれてからたどる構造変化の全プロセスを言うんですが、都市もこのように発生学的に捉えて、モノと時の組成みたいものを見出さないと都市への建築的介入の基礎理論ができないのではないかと考えています。

生物学だと例えば微生物がどう増殖していくかという実験をする場合、それだけを取り出してシャーレの中に置いて理想的な状態にして挙動を観察していくわけですが、都市の場合、例えば戦争でゼロになったとか、台湾の都市であれば市区改正でバサッと切断されたとか、極端な出来事が起こった時点を選んで、それに対して都市がどう動いていったかを歴史的に復元しながら考えていくことは出来るわけで、それをシャーレの中の実験と同じように考えてみようということなんですね。生物学ではガラスの中でということで「イン・ビトロ」と言いますが、それにならえば「イン・ビトロな都市史研究」のようなことが出来ないか思っています。
東京の場合だと関東大震災後の復興について田中傑さんが非常に緻密な研究をしていたり、初田香成さんは闇市の研究で第二次世界大戦で焼け野原だった東京から何がわき起こって更新されながら現在に至っているのかを調べていますが、それもイン・ビトロな、微分的な組成の転換みたいなレベルの研究だと思います。さきほどからお話しているのもすべてイン・ビトロ的な台湾都市の観察のつもりです。

もうひとつ、最近考えていかなきゃと思っているのは、「都市は学習する」というテーマです。日本だと区画整理や市街地再開発法というのがあって、もともと持っている権利を違う土地や床に変換できる制度が非常に発達しているんですが、台湾の場合は植民地支配時代の50年間、植民地政権の権力が強いために土地を政府へ差し出させることが出来たので、ややこしい権利変換の手続きを取らずに都市改造が出来たんですね。都市組織が切られると、切られた分がただ無くなる。そして切られた人が個別に応答する。だから権利変換の経験学習がほとんどないかわりに、パッチを当てたり、局所的な修正の作法を集合的に学習してきた。これも列壁都市の原理を保存してきた要因でしょうね。なぜならこういうやり方を続けるかぎり、構造そのものは意識化しないで済むからです。このことがある意味、それぞれの土地所有者のできることの選択肢を狭めてきたわけで、それがマクロで見ると都市組織の安定性というものを確保してきているとも考えられる。

例えば日本の江戸や京都ではかつては列壁都市的原理があったと言えるのだろうか、と考えたとき、実際に日本の町家は木造の軸組で全部出来ていて壁が共有されることはありません。隙間がほとんど無いというケースは多いんですけれども、壁は必ず二つ立っているんですね。明治期になると民法の外壁後退義務が出来て、隙間をとることが常識として学習されることで都市組織の安定性が崩壊してきた、という歴史を考えなければいけません。ほかにもヨーロッパの都市は中世以来の都市核はすごく安定性がありますよね。むしろ台湾のように更新すら起こりませんが、戦争で破壊されて再生された都市はドイツにも東欧諸国にもありますし、フランスではペレが全部計画したルアーブルの例があったりします。そういったところではどのように都市を見ればいいのか。うちの研究室から留学生を送りながら都市発生学的に都市を見てみようと考えています。

松島|権利の等価変換が当たり前の我々にとってみると、台湾の不動産や動産の仕組みがどう成立しているのか、想像が及びません。

青井|そうですね、戦災復興とか都市再組織化の国際比較みたいなものができると基礎的な資料ができるのではないかと思っていますが、不動産の観念や制度、所有や賃借というのは、売買や保証、変換といった「動き」が起きるときに破綻が生じないように作られているはずですよね。つまりスタティックな状態では制度はあまり問題にならないはずで、むしろ何かが動くときに機能するように制度って設計されているはずだし、その背後の思想にダイナミクスが反映されているはずです。だから不動産の考え方とか制度を丹念に見ていくことが都市発生学的な見方の基本的な部分になるはずです。
台湾の場合だと民法上どう規定されているか、例えば一間分だけ壊すという場合、当然共有する壁は壊してはいけないという民法上の規定はあるはずですし、積み増しも隣人と協議して近隣関係の問題を処理しているはずです。それからそもそもの開発の方法については向こうのディベロッパーの戦略を調べればよいはずです。それが台湾の都市空間のマジョリティがどう出来ているかを知るうえで一番手っ取り早いだろうと思っています。

藤村|東京をイン・ビトロ的に見る場合、どのようなところに着目されていますか。

青井|まずは実際の都市の歩みのなかで行われてきた権利返還のドキュメント、空間やモノが組み替えられるドキュメントを豊富化することが大事だと思います。一例ですが、曳屋(ひきや)はとても面白いですね。都市が動くだけじゃなくて建物も結構動かせるんですよね。関東大震災の復興の時は建ぺい率を通常よりより少し小さく設定してバラックを建てさせてるんですよ。区画整理の計画が決定したあと、それを曳屋で動かして換地していくんですね。藤森照信さんや田中傑さんも書いてますけど一年半で二十万棟を引越しさせたらしい。そのときのバラックは、形式としては町屋と一緒なんですけれど、簡単な木造で軸も細くてペラペラ。まず「自分たちで勝手に作れ」と誘導しておいて、区画整理ができたらそれを動かして、「区画整理が済んだら各自で更新してください、その時は通常の法律を遵守してください」と進めていくんですね。曳屋という、一般にはインフォーマルと捉えられがちな技術を組み込みながら政策決定がされてきたことは面白い。

別の例ですが、駅施設自体がめちゃくちゃ立体化して複雑化するというのが日本の都市の大きな特徴ですね。都市の中に縦横無尽に線路が入っていって駅を核に都市が膨張して、駅自体は商業施設をたくさん積んで複合していく、というのはグローバルに見ても特徴的だと思うんですが、そういったところもどのようなシステムで出来ているのかを発生学的に調べてみようと思っています。


台湾独特の都市組織の安定性
藤村|台湾の都市空間の構成・組織が安定しているひとつに、ディベロッパーが用意している透天形式も関係しているのでしょうか。

toutiancuo_taipei青井|もちろんそうですが、ディベロッパーがそれをツール化したのは戦後で、もともと漢人には透天的に所有するのが当然という観念が伝統的にあるんですね。自分の上に人が住んでいるのは好まない。加えて、不動産の所有に対するこだわりが非常に強いです。その背景の一つには相続の問題があって、息子の数だけ分けてあげないといけないというのは未だに根強いんですね。町屋の敷地と建物を四層くらい持っていれば下の二層を長男にあげて上の二層を次男に上げるとか、それでも足りない場合はどこかで買ってあげるとか。日本と違って男子に均等に分ける。それとたまたま植民地期に技術的な条件が変わり、かつ土地のポテンシャルが上がったので、二層、三層、とだんだん積層が進んで、それがディベロッパーの基本ツールとして確立しちゃったと思うんですね。

松島|日本も不動産欲望が強いと思いますが「自由に変換できるからこその欲望」と、台湾の「守ることの欲望」と、欲望の色合いが違うんでしょうね。

藤村|文化的な形式が残っていることと、計画がものすごく強く働いたという二点が大きいということでしょうか。

青井|そうでしょうね、植民地支配を受けたことが非常に大きいと思います。日本国内のように地主の権利を尊重しないと議会を運営できない状態であれば、まったく違う状況になったと思いますね。植民地はそうでなかった。

藤村|宮本佳明さんは区画整理をやめて市区改正に戻せば街並は保存されるから、そちらのほうが良いとおっしゃられていました。しかし聞けば聞くほど、台湾は日本人建築家の考える都市論の聖地のようなところですね。

青井|ところが台湾の建築家は台湾都市が大嫌い。だって造作しかできないんですから(笑)。日本に来ると、日本人建築家が羨ましいといいますね。

藤村|日本は1920年代に震災復興で大々的に区画整理が行われてきて、60年代には再開発が行われるようになりましたよね。経済成長していくと高度利用が出てきてタイポロジーが変化していきますが、台湾の場合はそういう工業化や経済成長という時期を経て、どのような状況にあるのでしょう。

青井|当然ながら町屋で全部押し切るわけにいかなくなってきた状況が高度成長期以降出てきていて、政府の官庁地区とかセントラルビジネス地区を見ていけば、大きな資本が町屋だった場所を買い占めてタワーを建てて公開空地を作っていたりします。そうなるとまったく列壁の街並が無くなることもありますが、タワーを建てても低層部のファサードに亭仔脚をつけたり、4層までは町屋に揃えてそこから上はセットバックして建てたり、と一見した街並を壊さない事例もあります。台北や高雄や台中のビジネス地区は公開空地を取ったタワーがかなり増えていますね。それに旧市街地の中心ではここ十五年くらいのあいだに衰退と空洞化が進んでいて、空家率は上がってきていると思います。そういった意味でやはり都市組織は徐々に変わってきていると思いますが、それでも日本と比べるとかなりタイポロジーは安定していると思います。

松島|列壁都市においてまず懸念することは延焼だと思うのですが、そういう恐れはないのでしょうか。東京では家屋の隙間から環状線まで、延焼の防災性を考慮して都市のタイポロジーが作られているわけで、即物的に生成した都市が防災のためにタイポロジーを変化せざるを得ないという事件がこれまでに起こらなかったのは正直不思議でなりません。

藤村|そういう意味で日本の都市はなぜ構造が維持されないかというと、ひとつは経済成長で、もうひとつは防災性と言えますね。

青井|東京のように火事が広がったという話はあまり聞きませんね。一番大きな地震は1935年の台中で起こった地震で、台中周辺市街地も相当やられたみたいですが、このときは鉄筋コンクリートが日本で普及していましたので、都市部ではレンガ造に鉄筋を入れたり鉄骨、RCで補強しなさいとか、亭仔脚を支えるフレームだけはRCでつくるとか、そういう規制が出来たようです。構成原理を守るために、より強化するやり方ですね。

藤村|都市建築レベルの話をお聞きましましたが、アイコニックな建築を作るような建築家というのは前に出にくい状況なのでしょうか。

青井|それはあると思います。運良くフリー・スタンディング・オブジェクトみたいなものが出来れば頑張るという感じでしょうか。あと、変な話ですが、高級タワーマンションのモデルルームはある意味では仮設の博覧会建築みたいな側面もあって、デコン風の派手なデザインを競い合う風潮がありますね。

藤村|日本で言うと丹下健三的な、国家を象徴するような建築の政治的な使い方はほとんどしないと。

青井|50年代とか60年代は国家プロジェクトがいくつかありますし、70年代には空港をはじめとするインフラ建設が推進されます(十大建設)。80年代には蒋介石のための慰霊モニュメントとして中正記念堂が建設される。国民党の独裁体制下では基本的には中国北方風のデザインがドミナントです。バブル期には台湾風ポストモダン・ヒストリシズムみたいな建物が流行しました。そのあたりで活躍したのが李祖原ですが、その後は台湾風から再び中華風の表現に変わっていったりと、表象レベルでのアイデンティティの模索は経済的・政治的状況を反映しているようです。しかし若手の建築家はむしろ比較的に現代の日本を見ている印象があります。

藤村|建築制度に対する民衆の要求みたいなものはあったでしょうか。いわゆる区画整理において、後藤新平が台湾で出来て日本で出来なかったようなことがありますよね。台湾的な政治的前提が関係しているんでしょうか。

青井|よく分かりませんが、現在の状況は、独裁体制的なものを引きずりながらも大局的には大衆政治的な構造に移ってきたことは事実で、国民党の政治家でも北京語に台湾語も交えながら話さなければならない状況なんですよ。都市計画や建築にとって良い話かはわかりませんが徐々に規制緩和は進んでいると思います。容積の問題や、最近問題になっているのは農地の転用の問題ですね。

藤村|政治的な状況はリベラルになってきたのに建築システムや都市空間はまだレガシーシステムとして残っているような感じですね。

青井|そうだと思います。不動産の所有に関することなどは歴史的な基盤があることなので政治が変わっても簡単には揺るがないかなと思います。大事なことは、台湾は日本や韓国と違って財閥の力が弱い、ということです。財閥系企業の戦略や状況によって社会が大きく変わるといったことは、少なくともこれまでは起きにくかった。町屋で都市が出来ている理由というのは、ひとつは誰でも小さな社長さんという家業型経済の持続力が強かったということにありますね。

藤村|それでは国際的競争力は弱くなりますよね。それを強化したり外資を受け入れようという動きはありますか。

青井|もちろんあります。工場やオフィスを誘致したシリコンバレー的な工業団地もあります。ただ、新興の小財閥企業みたいな組織は林立してきていますが、日本や韓国に比べればまだまだ弱いと思います。

藤村|財閥の弱さがある種の都市空間の安定性を作っているのですね。経済と政治による計画の強弱で台湾、日本、韓国、といったアジア諸国の状態を語ることが出来そうですね。