浅間山麓の宇宙/荷車のある日常:種田元晴『立原道造の夢みた建築』(鹿島出版会、2016)を読んで

 口絵に立原道造(1914-39)の絵が2点選ばれている。
 ひとつは無題だが、浅間山麓の小学校を描いた鳥瞰図(1935春頃)、他は未発表のパステル画「荷車」(1930年6月)である。この2点が、表・裏に印刷されている。

 前者は、著者の種田によれば、立原が都市の「煩わしさから逃れるように」、とりわけ自己の再生をもとめて繰り返し訪れた信濃追分付近の浅間山麓の風景のなかに、設計課題のために計画した小学校を描き込んだものである。建築ドローイングとしての一般的な透視図と比べて、立原には背後の自然風景を大きく描く傾向があるが、とりわけ浅間山麓を舞台としたこの透視図にあっては視点がきわめて高く持ち上げられ、そのために浅間山が大きくのびやかに捉えられ、主役であるはずの建物は画面下の隅に見下されるような構図をとる。これは「主題と背景との逆転」であり、「自然優位」であり、また山の描き方は雑誌『白樺』の誌面(1920年)を通じて立原も見ていたはずのセザンヌのサント・ヴィクトワール山と似ている。著者はこうした分析と推論を重ねながら、ゆっくりと読者を立原の抒情の世界につれてゆく。要するに立原は建物そのものではなく、理想的な自然環境が建物を包摂する風景を描こうとしたのであって、「徹底した自然回帰の、非物質的な豊かさを志向した」のである、というのが著者の論調である。
 もうひとつの「荷車」はどうか。立原の生家(日本橋区橘町)は荷造り用の木箱を製作・販売する商店を営んでいた。この絵に描かれた店先の荷車は、「立原の日常を象徴する」、と述べながら著者は、これを先の浅間山の鳥瞰図と「最も対照的な絵であった」と位置づける。本書で詳しく紹介されるように、立原には東京の家屋と電柱の風景をとらえた絵がいくつかあり、なかには関東大震災後のバラックの名残と林立する電柱とで構成される、きわめて興味深い絵も含まれる。著者はこれらも立原が忌避した都会のイメージ群として捉えている。

 あえて概括してしまえば、本書の描く立原は、最終的には反都市・反近代・反物質文明的な思想の体現者であるということになる。あるいは都市や戦争といった大きな渦に飲み込まれることを恐れ、個人の自由を守るべく田園のコロニーに向かう、逃避的な理想主義者の心性というべきか。
 立原をめぐって多くの資料を丁寧に読み直し、多くの人々の生の証言を集めながら書かれた本書を、僕は素直によい本だと思うし、若い著者がじっくりとひとつの対象に取り組む本には久々に出会った気もして、真剣に読まねばならないと思った。だからこそ正直に書くのだが、著者の種田にはずいぶんと逡巡があったらしきことが随所に感じられるのに、それを押し殺してしまったらしいことが何よりも残念に思われる。上記のような比較的単純な図式は、そうした割り切りの結果なのだろう。
 だがやはり単純化しすぎていると思う。実際、立原は都市に背を向けて「田園」という価値を見出したのかもしれない(1930年代も末になると遁走も緊張を強いられる選択であった可能性はあるが)。しかし、そうだとしても、それだけでは立原道造という夭逝した詩人・建築家が、なぜ丹下建三ら多くの同世代者にとって怖れやコンプレクスとともに自らの位置を測る参照軸=批評者たりえたのかの説明にならない。要するに「彼奴は理想に逃げたのだ」と言ってすまされぬ何かを、立原は持ち合わせていたに違いない。
 といっても、僕自身は立原については何も知らず、別様の立原像を示すための用意もない。
 ただ、著者が口絵にあの2点を選んだことは、やはり示唆的に感じられる。あざやかな選定だと思うのだ。というのは、その2枚に田園(への憧憬)と都市(の忌避)を二分法的に割り振るのか、むしろ田園にも都市にも同じ感性が向けられ得た、その可能性を提示するための、つまり対照的にみえて(であるがゆえに)表裏一体の2点と捉えるか    それ如何で本書の全体が書き替わってしまうほどの分岐点がそこに暗示されるからだ。もちろん僕としては、後者の可能性を妄想してみたくなる。だからこれは書評ではないが、本書に励まされた僕が、その著者を励ましたくて書く妄想である。

 浅間山と学校の鳥瞰図から見直そう。もっともこの絵については著者の細微にわたる観察で尽くされている。ただ、僕がこの絵から強く感じるのは「正面性」だ。セザンヌのサント・ヴィクトワール山についても、都市から田園へというような、画布の外から持ち込んだ理屈より前に、まずもって山への正対、という画家の対象への向き合い方をこそ取り出すべきであろう。あの山を何とかつかみ取りたいという焦り。セザンヌはあの山に、自分にとってのすべてがあると信じたのである。種田がいうように、もし若き立原がセザンヌを見ていたとすれば、そうした偏執や信仰さえ混じるセザンヌの気迫を感じなかったはずはない。立原も浅間山にひとつの世界を見、その「全体性」をつかみとろうとしただろうし、その具体的な方法ないし結果が「正面性」だったと僕は考えたい。
 彼の計画する学校は、その全体性=世界に参加する。というより、自身の幼少期を介して想像するほかない児童たちが、あの世界の住人となり、あの世界に包まれて学ぶ村    そんな夢想こそがあの絵なのだとすれば、あの構図はすとんと僕の胸に落ちてくる。他の課題の透視図には、そのような全体性の強度が足りない。そして卒業設計「芸術家コロニイ」で蘇る。だが、そこに文字通りの都市を忌避する志向性を、あらかじめ読み込むことには賛成できない。その理由が「荷車」にある。

 「荷車」の画面は、上下におよそ2:1:2に分割される。下部は道路面、中央の帯が歩道、上部は家屋の正面である。荷の括り付けられた車は、中央の歩道上、左寄りに描かれ、車輪がほぼ円形にみえる。つまり荷車の側面がこちらに向いている。上部の家屋は木造で、低い床、継ぎ接ぎのパッチワークのような腰壁と格子・障子・戸袋・・のコンポジション。立原はこれに正対している。この絵を特徴づけるのも、強い「正面性」だ。
 家屋の壁面は画家のいる空間をふさぎ、そのことによってこの空間をかたちづくる。壁面に光は当たらず、歩道に影を落とす。これが立原の生家なら、彼の家は道の北側にあったことになる。どうやら建物の右脇に路地、いや隣家との隙間があるらしい。向こう側からの光はそのわずかな隙間にピッタリ沿ってこちら側の世界へと差し込むのだから、立原はこの絵に作為的な構図を読み取られかねないことを怖れていないし、逆にいえば自然なスナップに見せようとする作為も見せていない。むしろ画面は衒いなく形式化されている。また、この一筋の隙間は、こちら側の世界を破綻に陥れるような亀裂では決してない。その証拠に、家業の荷車も、遊び場の道路面も、黄色い光できらめいている。
 立原はこうした路傍のどうということのない風景のなかにも、ひとつの世界を捉え、自分の内面とつながった全体性とでもいうべきものを掴んでいたのだと思う。少なくともこの優しく強い絵に、忌むべき都市のイメージといった読み込みをする必然性はない。この絵が捉えるのは幼年期からの立原の世界そのものであり、そこには小さな隙間が空いているがむしろそのために暖かく照らされた、柔らかく守られた場であって、いずれこれを捨てねばならかったとしても、それは決して容易なことではなかったはずだ。もし、彼のロマン主義が、都市を否定し、田園を理想化するようなものであったとしたら、それは「荷車」の世界(それはたしかに世界だったのだろう)を打ち消すことになりかねなかったはずであり、それへの抵抗が彼の心に働いたとするなら、立原のロマン主義は万一にも文字通りの田園/都市のあいだに境界線を引くものであってはならない、という精神の働きをむしろ生むはずである。

 いずれにせよ、もし立原の心性を「田園的なものへの志向」と呼ぶのであれば、その心性は、こうした路傍の風景にも、都市の乱雑な甍の家並みにも、バラックと電柱の森にも、均しく向けられえたものであったと思う。つまり「荷車」のある風景を「田園」と呼べるような感性があったとして、そのときの「田園的なもの」とは何か、というのが立原的問題なのだ。

 ところで・・・
 「自然主義」を、我々人間を離れてすでに=つねに世界に埋め込まれているところの自然法則(たとえ神がセットした法則であろうと)を絶対視する考え方だとすると、そこには古典主義建築や近代建築のように、すべては自然法則に支配された機械である(機械として設計されねばならない)、とする考え方が典型的に含まれる。
 対して人間の内面・感受性・主観・主体性、あるいはそこから立ち上がる理想といったものを重視する考え方がひろく「ロマン主義」といわれる。すると近代建築には、人間こそがある全体性、すなわち理想の世界を構想しうるのだというロマン主義も含まれるとしてよい。
 ロマン主義を、冷たい自然主義あるいは合理主義では割り切れぬものを補うものとして、二義的に捉える論調がある。これは日本語で書かれている素朴な近代建築史の大半に、多かれ少なかれ流れている。おそらくまだまだ近代建築の理解が一面的であり、合理主義におさまりにくいものは「周縁的なもの」として拾い上げる、という感覚から脱していない。そこではロマン主義の強度が蔑ろにされてしまう。ロマン主義ゆえの、主体との関係において切実な強度をもった全体性への強い志向がある。『白樺』は反自然主義を標榜した運動のひとつで、同誌がサント・ヴィクトワール山を紹介したのであった。

 多くの人が予期するように、立原の「田園」志向は、大正的なロマン主義、たとえば堀口捨己の「非都市的なもの」という心性に何らかのかたちで接続し、そして昭和戦中期的なロマン主義、たとえば富士山麓に展開する忠霊施設を描いた丹下健三のあのドローイングへと連なるだろう。そして、その接続の仕方が本書でどのように分析されるかが興味の引かれるところである。詳しくはぜひ本書を読んでいただきたいと思うのだが、これもまた、上述の「分岐」のいずれを進むかで異なった読みが開かれうる。
 たぶん、こういうことになるのではないか    堀口はロマン的な心性を「非都市的」な表現に託して慎重に差し出し、それに対立するものと折衷的に接合した。立原はロマン的な心性から把捉されうる全体性の感覚をつかんだ。丹下は、だからこそ立原を怖れ、そして立原亡き後、そのロマン主義の起点にあった孤独な主体を、群衆(国民)の代弁者たる天才へと反転させる感覚をつかみ、自然さえも自己の構築的意志に従わせるような創造性を手にした。もちろん、この天才はつねに創造の狂気をメンテナンスしつづけなければならない。
 立原的な感性は、没後30年のとばりをへて、都市や田園に向かう新しい感性、つまりヴァナキュラーな風景にアノニマスな人々のコミットメントの蓄積あるいは自由を見るような、そんな感性として復活する、という見立ても可能かもしれない。丹下的な国民=国家の機制、あるいは都市の構造化という主題が後退する1970年前後のことだ。このときのそれは、孤独どころか広範に共有された集合的な感性としてあらわれ、私たちの足もとまで地続きであるように思われもする。