2015年度夏の台湾調査〜沿海キャラバン+渓州集中調査

情けないことに多忙でブログが書けない・・・のですが、踏ん切りをつけてとりあえず台湾の報告を。

まず、今年から新たに下記の科研費で研究プロジェクトを動かしていくことになりました。

科学研究費 基盤研究(B)「台湾都市史の再構築のための基盤的研究:都市の移植・土着化・産業化の視座から」(2015年4月〜2020年3月)
コア・メンバーは青井(代表)および辻原万規彦(環境工学/近代産業施設)、恩田重直(建築史/華南都市史)。さらに高村雅彦(建築史/アジア-中国都市建築史)、陳正哲(建築史/原生建築)、陳頴禎(建築史/台湾都市と植民地産業)そして張素玢(歴史学/濁水渓流域研究)、洪致文(地理学/気象学)、廖泫銘(地理学/アーカイブシステム)といった方々にご協力をお願いしている(現時点)。

 テーマは、下図のような濁水渓流域内の都市類型の展開を踏まえ、個別都市の詳細な社会=空間史的な解明をも重視しながら、それらのダイナミックな関係構造を全体として明らかにすることで、台湾の都市史的経験というべきものを書き直していこうというもの。とくに図中の C の都市群は水害や紛争による破壊・再生・分裂・移動を繰り返しており、その不安定性の具体的な描出は大きな主題である。
cities_on_zhuoshui_river_system.003

 今夏(2015年8月)の台湾調査は約2週間。

 前半(4日間:8月10〜13日)は、彰化県から雲林県嘉義県まで、台湾海峡に面する西部海岸線をひたすら南下する調査。4日間で100Km強、30くらいの都市・集落を見た。鹿港のような対岸貿易港は、濁水渓の扇央部から大きく隔たった、水害リスクの小さな立地を選び、大局的には大陸サイドの泉州なんかと大きくは変わらない都市を建設し、富を蓄積した・・・と思っていた。いや、それは間違いではないが、やや安直に過ぎた。国家を前提とするマッシブな治水事業を行ってこなかった19世紀までの台湾では、河川の土砂堆積は船舶航行を困難にし、都市の存亡を左右した。今回、地名辞書や地方史の記述を読みながら沿海部をざーっと廻って理解したのは、鹿港のような都市にはその機能不全の程度に応じてそれを補う小さな外港や代替港が複数存在したということ。鹿港のような繁栄した都市も、そうした複数の港との連合(ネットワーク)として存在したのだと考える必要がおそらくある。リスクに関わる不安定性・不定形性といった問題はここにもあったのだ。
 もうひとつ。台湾は東海岸は断崖(侵蝕)、西海岸は砂浜(堆積)なのだが、一口に西海岸といっても、堆積の進み方が場所によってかなり異なることには驚いた。彰化県あたりでは陸地が海に向かって成長してきたため古い港町は今日ではかなり内陸側にあるのに対して、雲林県南部まで行くとたとえば台子という古い漁村がいまでも直接に海に面していたりする。
 これは(専門家に聞いてみないといけないが)おそらく河川の主流の変遷とかかわるのではないかと思われる。張素玢先生の著作によると、濁水渓流域の主流は18世紀初頭の段階では南の苯港(今日の北港)を通るような流路(苯港渓)であったが、扇状地の主流周辺には土砂が堆積して土地が高まるため、ひとたび洪水が決壊すればより低い土地へと主流が移る。こうして19世紀の主流はほぼ真西に向いた流れ(西螺渓)となるのだが、19世紀末の大洪水によって主流はさらに北側へ移り、北斗を通る東螺渓が大きくなった。もちろん、18世紀初頭が南流だったというのはたまたまで、太古から北から南、南から北へと主流は往復してきただろうし、それこそが沖積扇の形成過程である。植民地期の治水工事(1920年頃)がなければ、その後も手を離した散水ホースのような河川の首振りは続いたはずだ。
 これと海岸がどう関係するかといえば、大きな流路は大量の土砂を海に吐き出し、これが潮流によって海岸に堆積していくのだから、主流の河口周辺は海岸が成長しやすい。とすれば、上に述べた海に直面した漁村集落というのは、おそらく濁水渓の主流が2百年ほど前にその地域から離れたために位置を保っているのであって、その「位置」こそがこの集落それ自体だけでなく流域全体の歴史の証言者となっているわけだ。

R9282244
彰化県伸港:窓の向こうに続く道が港町の旧街]
R9282843
嘉義県東石:河口部の漁村。街-堤防-港の関係。台風15号の影響]

 後半(6日間:8月14〜19日)は、彰化県渓州郷の渓州市街地の集中的な調査を行った。北に中心廟を置き、そこから南に伸びる道(大街)、廟前を東西に走る道(横街)とに町屋が軒を連ねる、といった都市のレイアウトは、きわめて典型的な台湾都市のそれであり、北斗や田中などとも共通点がある・・・ように見える。けれど実際には、1910年時点ではさーっと水田が広がっていた。そこに林本源製糖工場が建設されたことを契機に、じわじわと、やがてはぐいぐいと、水田は市街地へと変貌していく。いかにも台湾都市らしさを感じさせる配置の廟などは、1960年代にようやく建設されたものであった。
 というわけで、今年の調査は、いかにして田んぼが都市に変貌するのか、という問いに挑んでみた。学生たちはものすごく頑張った。街の方々も信じられないほどよくしてくださった。にもかかわらず都市形成のシナリオづくりは意外に難しかった。町屋がぎっしり立ち並んでいるのに地籍図上は真っ白なんて街区がひとつならずあったりもした・・・が、最後には説得力ある仮説(の組合せ)はできたね。
 毎年そうだけど、一見すると過去の痕跡などほとんどなさそうな街でも、じっくり歩いて話を聞き、モノを見、寸法に当たり、議論をすれば、それらを一貫させうる論理というものが意外に早く浮かび上がる。その論理にしたがって街を見なおせば、次々に過去の痕跡が語り始め、昨日まで見えなかったモノが見えるようになり、薄っぺらに思えた時間の厚みがぬーっと広がっていく、そんな経験をする。最初の仮説はたいてい半分くらいは裏切られるが、半分が生き残って更新される。
R9283735
[最終日前夜のミーティングの様子]

 8月17日には彰化県文化局・田中地政事務所による(僕の)講演会が沙仔崙(今日、学会の大会で報告した調査の対象地)にて開かれ、県長(知事)、県文化局長、県の地政事務所長や各地区事務所主任・・といった錚々たる方々が会場に来られた。何だかすごかった。その日の夕刊に出て、TVに出て、ちょっと有名になった。ありがたや。

 8月20日には台北の中央研究院に招かれ、地理学の廖泫銘先生と互いの研究や活動を紹介しあった。辻原先生夫妻も同席。廖先生の歴史地図アーカイブには今まで知らなかった地図資料がわんさかあり、彼自身がシステムエンジニア的な面でも頑張っておられる。これまたありがたや。通わせていただきます。