建築雑誌2015年4月号特集「集合住宅の「普通の暮らし」:アジア東部6都市の比較」

 建築雑誌の表記特集号が出ている。一つ前の編集委員会(2012-13)でもアジアのハウジング特集をやったが(→201308特集「アジアン・ハウジング・ナウ」)、そのときおよそ前提になると考えた見取り図は次のようなものだった。第一に、東南アジア・南アジアについていえば、ハウジングというときに80年代なら真っ先にイメージされた貧困層向けのセルフ・ヘルプ系ハウジングはその後どう変質(たとえば成熟)してきたのかなど興味あるところだが、他方でその後の急速な中流層の形成について考える必要があるのではないか。第二に、東アジアは巨視的にいえば日本とかなり同質の問題系で見ることができようになってきたのではないか(世界的な都市間競争、新自由主義的経済政策、高容積率化、高セキュリティ化・ゲーテッド化、高付加価値商品化、そして高齢化や空室率、供給過剰状態での格差拡大・・・)    要するに70年代末から80年代にかけてアジアの情報が一気に入り込んだ当時とは、明らかに問題系が変わっており、「今や日本にとってアジアン・ハウジングは、先進国の高みから臨み下ろすようなものではなくなった。むしろ、グローバルな同時性と、個別の軌跡の差異や捻れを前提にしつつ、「居住の不安定」を生きる者同士として、互いの「経験した過去」から「予測される未来」までを真摯に学びあうパートナーでありうる時代を迎えているのではないか」というようなことを考えていた。
 こうした構図からすれば、今回のアジア集合住宅特集は東アジアにフォーカスを絞り、大局的な同質化を前提としつつもそのなかに微細な差異を見る試み、と位置づけることができそうだ。いってみれば文化的な眼差しに振ってある。マクロスコープの政治的=経済的視線を重視した前編集委員会に対して、どちらかといえばミクロスコープの社会的=文化的視線を前景化している今期委員会の特徴が今号もよく出ていると思う。
 少し読んでみるとわかるが、日本民俗学会が昨年開催した国際シンポジウム「“当たり前”を問う!:日中韓・高層集合住宅の暮らし方とその生活世界」(2014.10.04)が企画の背景にあるようで、なるほどと思った。戦後、とくに経済成長のなかで企業的・官僚制的なものの全国的な浸透とともに旧来の民俗学の対象自体が失われていくというディシプリンの危機がしきりに議論されるようになるのだが、今号にも登場する岩本通弥氏(都市民俗学)は対象でなく「方法」によって民俗学を再定義しようとされている。いわば自明化した日常の採集と異化というようなことであろうし、その方法はむしろ今日の「普通」の日常にこそ向けられるべきだということだろう。同シンポジウムはそうした立場をケーススタディ的に敷衍したもので、たぶん、高層集合住宅での暮らしの微細な差異を可視化し、「普通」がどのようなモノとヒトの関係によって組み立てられているかを問う、そんなシンポジウムだったのではないかと想像する。篠原聡子さんや大月敏雄さんが建築畑から呼ばれている(どこかに記録ないかな)    で、今号の特集は、そうした民俗学からのアプローチを建築サイドへと折り返してみる試みであったとも推測される。
 東京、ソウル、台北、北京、香港、シンガポール(掲載順)。5つの都市の集合住宅事情を、A=政策史的な背景からオーバービューを与えること、B=より具体的な集合住宅での生活シーンに迫ること、というおのおの趣旨に沿った二つの記事によって浮かび上がらせ、比較の視座と情報を提供しようという編集部の狙いはわかりやすい。ただ、ざっと読んだ感じでは、A・Bそれぞれの記事の差別化がうまくいっていないようで、編集の意図が必ずしも結果に出ていないと思われたのは残念な点だった。ただ、企画は非常に面白いので、多層的な情報を整備し、豊かな具体相を描くことができればよい本に発展できるのではと思った。(以上感想)


 なお、台北については編集部から相談をいただいたので、各方面に取材したうえで淡江大学の劉欣蓉さんを推薦した。彼女の簡潔にしてインフォーマティブな記事「台北の戦後住宅政策史─都市・市場・貧困」(青井亭菲訳)が掲載されているのでお読みただきたい。劉さんは大都市住宅問題について学術的な研究を進めるだけでなく関連する社会運動をサポートする実践家の顔も併せ持つ。