ヒストリー・オブ・・についての個人的な備忘録

ヒストリー・オブ・ジャパン・アーキテクツのシンポジウムでぼくが喋ったこと、どうもうまく伝わっていないなあと反省すること頻りなのですが、大事な部分だけここで補足しておきたいと思います。

まず、ぼくとしてはそれなりに日本の戦後建築史の全体をカヴァーできる歴史的パースペクティブを用意しようと思いました。それがぼくへの発注だったし、日埜さんからメールをもらったその時点で、ぼくはそれをまともに引き受けようと決めました。それはどのみち愚鈍になるってことだなあと思い、つまりは愚鈍にいこうと決めたわけです。最終的に提示したパースペクティブは完成していないし、さほど新しいものじゃないとも思うけれど、むしろこれまでの歴史(をつくる先人の作業)を(できるかぎり)引き継ぎながら、ぼくなりにアップデートしたものと考えていただければありがたい。アップデートのアイディアは、2年くらい前からちょこちょこ出しながら練ってきたものの延長上にありますが、今回また一歩展開しました。そのわずかな一歩のためにもかなり時間を使いましたが、全然勉強が追いつかないという焦りが募るばかりでした。歴史というのはそういう、全部を引き継げない気後れを抱えつつも引き継ごうとする営みだと思うので、やるべきことを多少はやったという意識ではあります。

近代以降の建築や建築家の歩みの歴史化は、戦前にも多少は行われましたが、集中的に作業がなされたのは戦後間もなくの時期でした。これは、幕末・明治以降の「日本の近代」が、敗戦によって総点検の対象となったことが背景にある。近代が中途半端だったのがいけないんだからもっと徹底させるんだとか、いや近代は機械的すぎたから人間的なものに修正するんだとか、伝統と近代とのよりよい結合がありうるんだとか、そういうことに実践が向かおうとしていた。その後、1970年代についさっき書かれたばかりの近代史そのものを憑かれたように書き換える作業がやはり集中的に行われます。このときは「近代建築」あるいは「近代」の国際的な総体が検証というかほとんど転覆させるべきものになりました。そうしないと次の課題が見えてこないという強烈な実感があった。よく語られたのは「主題の不在」ということでした。自分たちの主題がなくなってしまった、という実感と、18世紀以来の「近代建築」の歩みの全体を綴り直す作業とがつながっていた(黒沢隆『翳りゆく近代建築』など)。そうして、多くの人が「近代建築」の落としたマージナルな主題が膨大にあったことを見出して、そっちに行った。もちろんそんな単純じゃないですが。

この70年代的転覆によって、50年代の歴史は意味を失ったのでしょうか。そんなことは絶対にない。ぼくはいまだに稲垣栄三の『日本の近代建築』(初版1959)が日本近代建築史の本としては一番だと思っています(読んでいない人は、とにかく読んでください)。たしかに、イデオロギー的には相対化されてしまったといえるでしょう。実際、ぼくは院生の頃にはそういう読み方しかできなかったので、乗り越えられた本だと勝手に決め付けてしまった。だけどその後は読むたびに色々なヒントをもらっています。最近出した『明治神宮以前・以後』のぼくの章は、後半はこの本からヒントを得て展開しました(ついでにいうと前半はバンハムの『第一機械時代の理論とデザイン』の最初のへん)。あれほど簡潔ながら、包括的・構造的に日本近代建築史を捉えた本はないのです。だからこそ引き出せることがある。対して70年代の書き換えは、稲垣栄三に比べれば圧倒的に狭い。狭いところから全体をひっくり返してしまおうというのが70年代的文化の問題構成で、それにも理由がありました。そういう70年代的なものをぼくはいま批判すべきだと思うけれど、否定しようとは思ってません。そういう問い方だからこそ明らかになったことがたくさんあるのだから。

そもそも、他者が批判できるテキストをきちんと社会化しておくということの、何と素晴らしいことか。それがあるから僕たちは知を紡ぎつづけることができる。内田祥士先生の『東照宮の近代』はその意味で読むと力の湧いてくる本です。東照宮の修理工事にかかわった大江新太郎や大河直躬先生は、それぞれの時点で、現在性というバイアスを自らが持ち込んでしまうことの避けがたさを知りつつ、また、先人が残した過去の営みにすでに貼り付いているバイアスを取り去りようがないことをもわきまえつつ、つまりどこにオーセンティックなものがあるか確証のないまま、なお全霊を傾けた自分の作業によって先人の作業を継承しようとしたのだと著者はいう。感動的な肯定です。歴史を書く作業も似ています。確証はないけれど検証しつつ受け継ぐ。批判だって継承です。歴史を書くことは暴力だけれど、同一性の導入という暴力によってこそ、そこにあった差異が逆照射され、だから後の人はそれを見ることができ、それを書く。同様に、もし誰かが歴史に断絶を持ち込めば、その切断面の存在によってこそ、それを突き抜ける線(連続)を描こうとする欲求が喚起される。

あの展覧会は「アーキテクツ」を主語にしています。シンポジウムの「ヒストリー・オブ」という構えは、その主語を相対化する設定だと受け止めました。展覧会自体がひとつのヒストリーなのだけど、「建築史家」という職能意識をかませてこの設定をぐいと前景化させる。もうこの時点で登壇するやつはある意味滑稽なわけで、でも愚鈍に行こうと決めた。それで、顰蹙だろうなとは思ったけれど、社会・経済・政治的な枠組みから建築家の自意識を相対化するという構えをとりました。全然イケてないことは承知してますが、正直にいえば稲垣栄三を意識しています。それと、「建築家」という言葉の現在的意味を疑った方がよいというぼくの主張は、神代雄一郎の存在を念頭においています。1974年。あれほど「建築家」を信じようとした人の、信じようとしたがゆえの言葉がなぜ行き場を失って宙づりになってしまったのか。「建築家」という言葉の意味がずらされてしまっていたからだ、というのがとりあえずの見立てです。そこから先の歴史過程についてはまだほとんど作業できていません。けれど、いまもそのずらされた舞台のうえで演劇が続けられているように思います。舞台にしがみつかなければもっと自由になれるかもしれないけれど、簡単にはいかないことはよくわかります。建築家だって歴史的な存在で、引き継げるものを更新しているのだから。ぼくも舞台を動かすのに寄与したいですね。そうしないと神代先生も浮かばれないとぼくはなぜか信じています。見当違いかもしれないけれど。

歴史の書き方はいろいろあって、徹底してフォルマリスティックに語るヴィンセント・スカリーの『近代建築』みたいなのもある。ほんとうは、建築家の社会政治的位置の変動と建築表現のフォルマリスティックな遷移とを、緊張ある関係で結びながら語ることができたら一番いいな、とぼく自身は思っています。時間がかかりますね。でも自分たちのいる場所を歴史的に語り直そうとする動きがじわじわ広がっているのを感じます。