『ja』96号:YEAR BOOK 2014

 新建築社『ja』の96号(Winter, 2015)はYEAR BOOK 2014。建築の現在をどう切ってみせるか。ビルディングタイプ? ジャンル? サイズ? 今号ではプロジェクトが要した時間の長短という尺度で作品が並べられている(編集長:中村光恵)。ちょっと見にくいけど面白い尺度かもしれない。
 巻頭の「クラス化する建築:建築設計と意思決定の現在形」は、山梨知彦さん、伊藤暁さんと青井の鼎談。僕は『新建築』誌2014年の月評子をやらせていただいたのだが(2014年12月号掲載分で終了)、1年間味わった隔靴掻痒の感について考え直した。つまりプロジェクトの成立構造(意思決定のストラクチャ)を踏まえないと、建築家の(つねに限定的であるほかない)役割を具体的に捕まえられない、するとその限定性を引き受けつつ(それゆえに/にもかかわらず)建築家がどのような独自の問題を構成しえたかを問うことも難しい  
 大雑把にいうとグローバル資本主義の力とそれに対する政策が、建築というフィールドをいくつかの「階層 class」に切り分けている。クラスによって、プロジェクトそのもののアーキテクチャがある程度決まる(「クラス」は僕が便宜的に選んだターム)。どんな建築家が選ばれるか、建築家に何が求められるかといった問題系も似る。つまりクラス概念で今日の建築的実践を括り直すと見通しがよくなりそうな気がする。
 だけど本当の問題は、そのクラスの構造に対して建築家が順応するのか、あるいは(磯崎新の筑波のように)どこまでもその構造に埋もれることなく自立性を確保しようとするのか、あるいは構造そのものを乗っ取ってわずかにでもその書き換えを試みるのか、はたまた最初からそんな構造などに関わらないようにするのか(独立国を目指す)、ということだろう。端的にいえば、この種の「クラス」はどの時代にでもあって、建築家の順応とは、要するに時代的拘束に自らを適応させ、建築家自身も経済的・政治的にクラス化され、相互批判が起きにくい状態をつくることにつながっていくだろう。
 プロジェクトのアーキテクチャ  (それは多分に政治なのだが)そんなことにかかわる情報を『新建築』誌が掲載できるわけはなく(近年の同誌ではプロセスのタイムラインを整理したページが増えているが、それは市民・学生らの「参加」を示す以上のものではないことが多く、当然ではあるが意思決定をめぐる緊張は取り除かれている)、批評の活性化のためには書き手が自ら足で稼ぐほかないのだ。