建築夜学校第一夜:新国立競技場をめぐる議論を終えて(ノート)

 一昨日(20141001)、日本建築学会 建築夜学校2014「東京オリンピック2020から東京を考える」の第一夜の企画として開かれた、「新国立競技場の議論から東京を考える」と題するシンポジウムに登壇した。槇文彦さん、内藤廣さん、浅子佳英さん、青井の4名が発題者、五十嵐太郎さんがコメンテーター、進行(企画も)は松田達さん。ホール外の中庭では、田中元子さん実況、森山高至さんと松島潤平さん解説というキャストのパブリック・ビューイングも行われた。
 内藤さんが登壇されたことで、反対派の集会ではない議論の場が初めて持たれたことの意義は大きいと思う。だが、なされえた議論がなされなかった。

 槇さんは「新国立競技場ザハ案」はどこにもよいところがなく、出来ても世界の冷笑を買うが、そもそも技術的・コスト的に実現不能とみられるので破棄すべき、といった意味の強硬な発言を繰り返し(余裕のある冷めた口調で)、会場の一部からその都度拍手が送られて異様な雰囲気だった。歴史的景観やストリートスケープの問題には全くふれなかった。
 国際デザインコンクールの審査委員の一人だった内藤さんは、拙速な審査で技術的困難が予想される案を選んだ問題は認めるが、時間のないなかで何とか実現に向けて進めていくしかない、そのなかで建築論を深めるべきだ、反対派は建築界や市民の意見をまとめる力を持てていない、という意味の発言をされた(色々なものを飲み込むように)。
 内容はおよそ以上である(単純化しすぎだとは思うが、およそこう要約できてしまう内容であった)。浅子さんが気を吐き、あの空気を攪乱したのが救いだった。批判のための批判じゃダメだ、ヴィジョンを示そうと。僕は役立たずだった。松田さん、浅子さんと事前に議論をしてきたし、何よりあの場に座っていたのだから、もっと議論を深める努力はできたはず。反省を込めつつノートを書きたい。

 槇さんは反対派の牽引役・偶像としてブレを見せなかった、内藤さんは苦しい立場ながら真摯に発言した、と受け止めた人が多いようだ。しかし、一方に「正しさ」、他方に「漢(おとこ)」、というような感想が残っても意味はない。何も得られていない。内藤さんの発言が少なすぎたとも思う。もったいないことをしてしまった。

 僕が最初に確認したかったのは、このプロジェクトにまつわる意思決定の何が誰(どこ)に付託されていたのか、ということである。ありていに言えば、与件の大枠は政治意思として示されたもので、それを設計条件に落とす有識者会議も、デザイン監修者を決めるコンクール審査委員会も、設計者を決める公募型プローポザルの選定委員会も、そしてデザイン監修者も設計者も、さらには都市計画審議会さえも、その政治意思を黙々と具現化する機関として走ってきてしまった。それぞれの役割は限定的だが、その限定された場において、与件を踏まえつつも、ありうべき公共性を付託に答えていかに救い出すかという緊張のなかでそれぞれの役割を果たすことが出来なかった、ということだろう。

 僕は、前にもこのブログで書いたとおり、コンクール(コンペ)の結果を否定する気はない。なすべきことは、今回、結局何が問題だったのかを明らかにし、それを議論し、正確な情報とともに記録することだと思っている。議論の焦点は、大きくいえば都市公共財の創出にかかるヴィジョンの問題、そして、設計体制と建築家の問題。この二つくらいは、建築という分野に携わる者として徹底的に議論しなければならないだろうと思う。
 たとえ政治意思が大枠を決めていたとしても、それを具体的な要項・条件に落としていく段階で、その後の意思決定をもう少し違ったものにできた可能性はないわけではない。もちろん大局的には、文科省−JSCに大きな責任があるが、有識者会議やコンペ審査委員会に参加した建築専門家にもそれなりの矜持を通すことで少しでもマシな方向へ舵を取ることに貢献する責任があっただろう。ここで都市、公共財に関する(一言でいえば)理念が問われ得たはず。
 設計体制、すなわち監修/設計(デザイン監修者/技術的設計機構)の二階建て構造の問題も大きい。この方式の採用は、たんにプラグマティックな選択の問題なのではなく、公共財の創出に関する責任をあやふやにし(デザイン監修業務というのは建築法規上の根拠もおそらくないし、契約の内容もよく分からない)、しかも、デザイン/建物本体(実務的遂行)の二つに、建築の統合性を分離してしまう(「あくまでデザインだけ」というような言辞が普通に使われている)。それに、新国立の変わり果てた基本設計案はもはや建築的主題を失ってしまっているように見える(これではコンクールの意味がない)。この監修/設計の二階建て方式をとることが仮にやむをえないものであったとしても、それならば起こりうる混乱を踏まえた審査がなされるべきだった。本当は、やむを得ない、ということはないはずだが。
 審査委員会が、東京の国際競争力強化というような政治意思を曖昧に汲み取りつつリスキーな案を選んだひとつの背景に、あとには「日本」の組織設計とゼネコンが控えている、という予断もあったかもしれない(なお、今回の新国立のコンクールでは、審査委員会に“実現可能性”についての助言をする専門家も呼ばれていた)。

 これらの問題について、せっかく内藤さんが登壇されたのだから、しっかり発言をしていただくべきだった。問題の所在を、当事者の立場から聞き、それを歴史的パースペクティブにつなげながら、より一般的な問題、つまり誰にとっても共通に問われるべき問題へと敷衍していく議論が必要だった。

 それから、今決して望ましいとは言えない言論状況が生じていることについて、巨大建築論争を参照して考えてみる価値はあったと思う(発言の用意はあった・・・が、しなかったのは僕が悪い)。1970年代前半、神代雄一郎は巨大開発に建築家(設計者)が「動員」される状況を批判して、一言でいえば社会を考えよ、と言った。それに対して巨大建築の担い手になりつつあった日建設計の林昌二が反論し、建築は社会の産物であるいうことをよく考えよと言った。神代の念頭にあった社会とは理念的な市民社会のことであり、林のいう社会とは施主とその背景にある社会経済的・政治的な環境であり、誰もがそれに巻き込まれている現実のことだったと言えるだろう。近代はこういう分裂を余儀なくする。以前、堀口捨己・神代雄一郎を主題とするシンポジウム(http://10plus1.jp/monthly/2013/06/)をやったとき日埜直彦さんが指摘していたように、林の側にも緊張があったに違いない。建築というのは錯綜する複雑なしがらみのなかでも矜持を通す格闘から生み落とされるものなのだから、そう簡単に言わないでくれ、という思いがあったろう。僕は神代を再評価したいと考えているが、林を悪役にすれば神代が浮かばれるという単純なものではない。
 今回の新国立をめぐる言論状況はどうか。図式的にはよく似ている。同様に分裂している。しかし、どこか決定的に違うところがある気がする。70年代の巨大建築論争では異議申し立てをした神代が孤立し、他の言説はほとんどすべて巨大建築の担い手側による反論であった。あの論争の過程では「建築家」は神代を批判こそしなかったが実質的に黙殺したのである。40年後の今回は、逆に発言のほとんどが反対派の人々によるもので、「建築家」の一群が単純化された市民社会の正義に与する構図がある。どうしたわけだろうか。この40年間に何がどう変わったのだろうか。
 否定しがたいのは、いずれのサイドも、林や神代にあった分裂・矛盾との格闘の契機が抜け落ちているように見えることである。両サイド(というよりも私たち皆)の倫理的感性の刃が鈍(なま)り、ますます大きくなる政治的な力を前にそれが不格好に露呈している、といったことなのだろうか。
 いずれにせよ、社会像の分裂を架橋する努力は払われなければならない。実際、少なくとも基礎自治体レベルではそれなりの枠組みができてきた。しかし国家プロジェクトについてはそれが「ない」。結局、設計案・設計者を決めるコンペの役割はきわめて大きい。もちろん与条件の作成(プレデザイン)を含めての話である。そこに巨大な付託がなされていた。
 もうひとつ、全然違う話だが、新国立競技場が現状の案で出来るにせよ出来ないにせよ、周囲の貧弱な公共空間(歩道)を充実させることだけは是非ともやるべきだろう。白井宏昌さんが『新建築』9月号に書いていたが、都心の環境を使う分散型五輪だからこそ、競技施設だけを問題にするのでない、都市的な視野が必要だ。