近世的な「地震の間」の継承と、近代的な「在来工法」への変化、との併存:千葉県佐倉市にて

2014.05.04 Sun. 千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館に出かけて、「歴史にみる震災」展(2014.3.11〜5.6)をみてきた。今年から首都大の饗庭伸先生代表のチームで進めることになった綾里プロジェクト(岩手県大船渡市)の仲間である、東大の岡村健太郎さんが企画・制作にかかわった展示。日本の災害史に関する書物はそれなりにフォローしてきたし、災害史は都市史・建築史の鍵のひとつを握っていると思って興味を持ってきたので、だいたいのことはその知識を確認していくような感じだったが、やはり生の史料には迫力があった。それとたぶん岡村さんの仕事だと思うのだが、吉里吉里の白い地形模型に対して各時期の景観を投影していく展示なども分かりやすかった。各地域であのような知識の可視化と継承の仕組みがあるとよいのだろう。上に述べた綾里プロジェクトもそうしたもののモデルのひとつを構築するものになるだろう。あと個人的には丹後地域の街や集落は、1927年の北丹後地震の後に復興しており、関東大震災昭和三陸津波の間なので前々から気になっていたのだが、やはりしっかり見る+勉強する必要があるなと再確認。

さて、歴博を出たあとは、近くにある旧堀田邸(重文)を見にいった。明治中期(1890=明治23年)に竣工した旧佐倉藩五代藩主堀田正倫の邸宅で、建築は西村市左右衛門、造園が伊藤彦右衛門。いずれも東京から招かれた。簡素な邸宅ではあるが、芝のやわらかい曲面がひろがる庭は起伏ある地形を生かしていて飾り気がなく、なかなかモダンで見事だと思った。伊藤は前田家の庭師として知られる人で、東大本郷キャンパスの懐徳館庭園は彼の作品。
堀田邸には、すでに失われてしまっているが、かつては「地震の間」という附属の棟があった。正倫の娘であり、堀田家に迎えられた正恒の室となる和子のために増築された棟(和子の間とも呼ばれた)。
この「地震の間」という言葉は、どうやら近世初期に遡るものらしく、学会のウェブサービスで検索してみると例えばこんな論考が出てくる。

大熊喜邦地震の間と耐震的構造に対する観念」(『建築雑誌』345号、1916年9月号)
・内川亜紀+小沢朝江「近世における「地震の間」の機能と平面・構造について」(日本建築学会大会学術講演梗概集、9061、2005年9月)

内川さんのはたぶん卒論をもとにしたもので、その卒論は学会の優秀卒業論文賞をとっている(論文本体は未見)。この大会発表によると史料的に確認できる地震の間は29例あり、地震時の緊急避難所、余震が続くあいだの仮住まいといった意味をもつ建物で、17世紀前半から江戸城や大名の屋敷、あるいは京都の御所において断続的につくられてきた。大熊の論考にもあるように、柱を掘立てにして地中の土台とともに固め、上部構造はできるだけライトにした、きわめて簡素な独立の建物を、庭園の池のほとりなどに建てたようだ(相当に大きな平面をもつ系列もあるが、多くは1.5×2間から2×3間程度と規模も小さい)。
この堀田邸の地震の間も、主屋から廊下ではりだしたウィングをなす独立の棟で、2×5間程度に入側をまわした程度のもの。いくぶん大きめではあるが、近世の地震の間に連なるものとみてよいのだろう。

で、話はややこしくなるのだが、堀田邸は、伝統工法の変化がはじまる時期に建った。邸内に掲げられたパネルによると、ボルト・ナットなどの金物を加え、火打を打ったりする改良が採用されていたことが分かる。この先に、のちに在来工法と呼ばれるような体系が確立されてくるということだろう。近世的な地震の間が、緊急避難というテンポラルな使途のための離れのようなものであったとすれば、家屋全体を、伝統工法から解放しつつ耐震化していくプロセスの先に在来工法があるわけで、堀田邸はその両方の流れの並在の証ということになるだろう。

ついでにいえば、こうした変化は帝国規模でも観察できる。たとえば日本植民地期の台湾では1935年に中部で大震災がおきた後、被災地の再建でRCの基礎、アンカーボルト等の金物、火打や方杖などを用いた工法が推奨されている。彼の地の人たちはそれを「地動厝」つまり“地震の家”(!)と半ば誇らしげに称しているが、日本的在来工法の浸透によって、台湾的伝統工法との技術的二重化がおこってもいる。家内の母方の実家は、実はこれに当てはまる実例のひとつで、2年程前だったか詳細に実測したことがある。陳正哲さんは自身の修論地震後の建築技術の変化について研究し、本にまとめている →陳正哲『台湾震災重建史』(南天書局、1999)。そういえば彼と共著でこんなのも書いた→青井哲人・陳正哲「震災の変質と住まいの変質〜日本統治下台湾の震災と復興〜」(『すまいろん』no.89,2009)。