瓦礫の中の建築論 ---『雑口罵乱 7』所収の竹内泰さんの講演録を是非読んでほしい。

zakkubaran_07_2014滋賀県立大学環境建築デザイン学科の学生有志グループ DANWASHITSU が毎年発行している『雑口罵乱』第7号を読んだ。DANWASHITSU では1999年から錚々たる建築家、ランドスケープアーキテクト、エンジニア、建築史家、職人らを招いての講演+討論会を続けていて、たぶん2006年分(2007年刊)から活字にしている。A5版・縦書き・モノクロの同人誌風のデザインで、ぱらぱらとページを繰ると、琵琶湖のほとりのキャンパスにいまどき珍しい闊達にして禍々しい磁場があって、そこに招かれたゲストたちはたちまちのうちに酒臭い教師陣と焦燥に満ちた学生たちに翻弄され、かしこまった場なら言うはずのないことまで口を滑らせ、会場まるごと一体になって盛り上がる --- そんな DANWASHITSU の雰囲気が伝わってくる。
DANWASITSUさんから毎年送ってもらっている『雑口罵乱』だが、この第7号には、末光和弘(自然に学ぶ新しい環境建築)、井手健一郎(Improvisation)、佐藤敏宏(ど田舎・元エア建築家の話を聞こう)、藤森照信(建築は自然と仲良くできるか)、竹内泰(コミュニティアーキテクトとは何か:復興まちづくりの課題)という5つの講演+討論の記録が掲載されていてどれもスゴイ。酒臭い某F先生が一番面白がってたのはたぶん佐藤敏宏さんの回だなー。
もし皆さんが「建築家とは何か」について考えたいのなら、もちろん総てがそのための道標になるのだが、僕としては是非とも竹内さんの回を読んでほしい(下に見出しを掲げる)。

竹内泰「コミュニティアーキテクトとは何か:復興まちづくりの課題」

  • 建築、建築家、コミュニティアーキテクトをめぐって
  • インドネシア・パダンの地震調査
  • 被災地の状況把握と情報発信
  • 志津川番屋ができるまで
  • 生産の流れに逆らって瓦礫の中で建築を建てる
  • 法律の世界と現実のギャップ:第84条
  • 不明瞭な行政の土地処分
  • 志津川番屋の法的課題:第85条と条例
  • 雑則にまとめられている重要な法律:建築基準法の目次
  • コミュニティの形を探って:大谷地
  • コミュニティの形を探って:鹿折地区
  • 建築とは何か
  • コミュニティアーキテクトとは何か:「屋」「家」「士」三つの職能タイプ

竹内さんは僕の同期で、むかしから全身の皮膚が社会的・倫理的感受性のレセプターのような人である。某大手会社で設計の仕事をした後、宮城大学に移り、ほどなくして東北太平洋地震に襲われた。僕が『建築雑誌』の編集委員長をやることになったとき、是非とも委員になってほしいと思った人の一人で、実際、見えないところでずいぶん助けてもらった(これ以上個人的なことを書くのはやめときます)。今号の『雑口罵乱』は、(僕にとってはとにかく)地震からの3年のあいだに竹内さんが被災地の社会とともに動きながら考え、僕にいつも話していたことが、はじめてちゃんと活字になった大事な本(『建築雑誌』2013年11月号特集「「建築家」が問われるとき」があるんだけど、そこでの竹内さんの論考ではちょっと伝わらない)。これで僕も「これ必読」と周りの人たちに紹介できる。
この講演と討論で彼が話しているのは「コミュニティアーキテクト」についてだが、それはコミュニティのために動けば建築家の職能が確保されうるのだといった党派ナショナリズム的な心性とはぜんぜん関係のない、むしろ設計者は何のため・誰のために報酬を得て職分をまっとうするのかという、根本に立ち返った問いが立てられる場であって、その場においては建築批判と建築家批判が同時になされる他なく、建築はそれを成立させる諸条件を建築化のプロセスあるいは瞬間においてあぶり出す政治的な決断であり装置であることを避けがたく、だからこそその意義を積極的に探求することもでき、またそれゆえに歴史的であると同時に歴史を超え出るものであって、結局そのことを真摯に生きることがすべてだとしか言えない、というようなことだ。
彼(設計者)はたとえば構造屋・設備屋などと同様に「意匠屋」などと呼ばれる。それは建築生産関係のなかでの水平的な分担と連携のなかでの位置を指し示している。もし彼が「建築家」と呼ばれるのなら、それは設計者の世界を特定の論理で囲い込んだり、同心円状に階層化したり、垂直に継承したりするような集団的意識がその前提にあり、そこには師弟関係や世代関係、ジャーナリズムやそれと相補的な教育の一面が関わっているだろう。しかしそもそも彼の職分は「建築士」という法的な裏付けとともにあり、国家と無縁でなく、テクノクラートが培ってきた社会政策の蓄積と、その反映としての教育のもうひとつの面がやはり関わっている。「屋」-「家」-「士」。
竹内さんのひとまずの結論は、「屋でもあり、家でもあり、士でもある」ようなものとしてのアーキテクト像を模索しつつ、そのことによって地域を含む国家と建築の歴史的な刻印をつねに現場において批判的にあぶり出していくような倫理観、ということになるだろうか。誤解のないように言い添えると、彼は自分の考えたことを倫理だとかそんな口幅ったい言葉では表現しないし、いつも平易な言葉で苦悶や怒りや優しさとともに人に接することのできる人である。