2013年古建築実習:ようやく解説も落ち着いてきたので来年度はもう一枚脱皮したいと思う。

 今年は門脇耕三先生、川嶋雅章先生が前・後半の引率について下さり、TAの院生も含めて49名で行ってきました。皆さんお疲れ様。
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10月7日(月)生田(開始)/白川郷/輪島(宿)
10月8日(火)輪島(宿)/黒島(北前船の船主・船頭町)/金屋町(高岡の鋳物師町)/瑞龍寺禅宗七堂伽藍)/奈良駅(解散)
10月9日(水)奈良駅(集合)/法隆寺(西院中門・金堂・五重塔・大講堂/東院夢殿)/薬師寺(金堂・西塔・講堂)/唐招提寺(金堂・講堂・経蔵)/東大寺(南大門・大仏殿・法華堂)/春日大社奈良駅(解散)
10月10日(木)奈良駅(出発)/今井町寺内町)/室生寺(金堂・彌勒堂・潅頂堂・五重塔)/大神神社(拝殿)/慈光院(書院・茶室)/十輪院(本堂)/奈良駅(解散)
10月11日(金)奈良駅(集合)/浄瑠璃寺(九体阿弥陀堂・三重塔)/平等院鳳凰堂・鳳翔館)/法界寺(阿弥陀堂)/南禅寺(三門・方丈庭園)/水路閣(琵琶湖疎水)/無鄰菴(山縣邸)/東本願寺前(解散)
10月12日(土)東本願寺前(集合)/下鴨神社(本殿屋根葺替工事)/円通寺(庭園)/龍安寺(石庭)/仁和寺(金堂・御殿・遼廓亭・飛濤亭)/二条城(二の丸御殿)/京都駅(終了)

 写真と関係ないんだけど、好きな建物のひとつ室生寺金堂についてちょっと。あの建物、正堂部分が先にできて、孫庇形式の礼堂は事後的に付加されたってのはホントなのかなあ。ふとそんなことを思った。
 正堂は平安時代(9世紀後半)の建立とされているんだけど、礼堂部分は17世紀にまるごと新材でつくり直されてしまっていることもあって、実はよく分からないらしい。ただ、修理報告書を読むと、やはり事後の「付加」であるということ自体は疑われていないようだ。たしかに、正堂の正面軒廻りの化粧隅木・垂木に当初材が残り、正堂部分が建築物としての独立・完結した姿をもっていたことは事実なので、事後的付加とみるのが自然だし、報告書によれば、正堂前面の側廻りの柱間装置は痕跡からもともと扉口であったとみられ、かつその方立ての一部が当初材で風蝕が大きいので外部に露出していた期間がそれなりに長いことがわかる。ついでにいうと、正堂は二軒なんだけど、礼堂付加時に正面のみ飛檐垂木を取り外して、礼堂の化粧垂木を重ねたとみられる。時期としては、鎌倉期に大掛かりな修理が行われたらしく、礼堂の付加もそのときであろうという。
 というわけなので、正堂と礼堂に時間差のない「一体的計画」の可能性、なんて考えるのは素人の思考実験でしかないし、大して意味もないかもしれないけど、でもそう考えてみるのはちょっと面白いような気がした。純然たる仏の空間であった古代の仏堂が、内陣+外陣を一体的に計画する中世仏堂に至るまでの過渡期の例としては、ほかに東大寺法華堂、当麻寺曼荼羅堂、長寿寺本堂なんかが代表的で、これらはいずれも明瞭に付加的というか、連鎖的に変形を加えていった過程を想定するほかない。でも、双堂(ならびどう)形式にせよ、孫庇形式にせよ、当初からそのように計画することは不可能ではない。もし、仏像を安置する空間はあの「身舎+庇」という構造-空間-意匠の古代的統合形式によらねばならない、という観念が十分に強固であったとしたら、その原理的形式性を温存したまま礼堂を設ける「一体的計画」だってあってよいように思う。もしそういう遺構があったら、「古代的アーキテクチャー」がいかに乗り越えられていくか、という問題も一段とダイナミックになるような気がするなー。神社だと、本殿はいつまでも身舎+庇形式だよね。その後いくら礼拝空間が発達して複合化しても、本殿の独立性・完結性はいつまでも保持される。このへんでやめとこ。以上、素人でした。

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