深尾精一先生の特別講義を拝聴して、土台について考える

 門脇耕三先生の建築構法Iという授業の最終回は御師匠の深尾精一先生による特別講義、というお知らせをいただいていたので、今日(20130718.Thu.)教室に潜り込んで(とか言って一番前の席)拝聴した。
 何気ないお話のなかでたくさん気づかされたことがあったのだが、そうか!と思ったのは在来木造の土台について。深尾先生曰く、基礎がしっかりしていれば土台には構造的意義はあまりない、と。むしろ、木材を寝かせて繊維に対して剪断方向に力が加わるようなかたちで柱を受けるのは不合理でもあり、古建築のように基礎となる石に柱を直接立てるのが本来だろうとも。ということは、土台には構造的意義とは異なる意味が存していなければならぬではないか!というわけで色々考えてみるに、これは地盤側に属する基礎と、建物側に属する土台との間で、構造物が分離可能であるように出来ていること自体に意味があるのではないか、ということに思い至る。つまり「上物」の分離であるが、「分離」にもいくつかの意味がありそうだ。ひとつは深尾先生もおっしゃっていた、平面計画の融通性の問題、土台があることによって柱や間柱の配置に自由度が出る。もうひとつは、出来上がった後の分離可能性の担保。具体的には地盤に不陸が生じた場合の調整とか、区画整理時の曳家とかのために建物をジャッキアップすることがあるが、基礎と土台の間を切り離してジャッキアップすれば、基礎はなくても土台によって建物の全体を保持できる。同じ場所でも別の場所でも、新たに打ち直した基礎の上に、それをもう一度据えることができるわけだ。ちなみに津波で発生する浮力も、基礎から建物を切り離してしまったが、土台はやはり建物側にくっついて浮き上がるのが大半のようである。
 そんなことなんじゃないかと思ったのですが、いかがですか?という私の質問に深尾先生のレスポンスはおよそ「正解」というお答えだったと思う。つまり建築生産からプランニング、そして都市の新陳代謝や災害との関係など、色々な意味で生活環境の冗長性や柔軟性を担保するものとして、土台という(平時には)構造的意義の曖昧な部材が存在すると考えられるわけだ。

江戸図屏風(寛永期)_出光本* で、思い出したんだが、平安末から中世の京都の絵図をみると町屋は掘立て柱なのが、寛永期(江戸初期)の「江戸図屏風」(歴博本)に描かれた町屋をみると、「庇下」を支える柱だけは例外なく土台上に立っている。よーく見ないと分からないけど、建物本体の場合はまず柱が立って、その間を地覆(地面に接する水平材)がつないでいるが、庇下の柱立ては、土台を地面に直接横たえてその上にのっているのだ。他の図でもだいたいそうなので(例外あり)、たぶん描写自体も正しいんじゃないかと思う。これ、前に都市史特論という授業で喋りながらスライドを見ててふと気づいたような記憶がある。
しかし、これってどういう意味があるんでしょう?>深尾先生

江戸図屏風(寛永期)_出光本

[追記1:20130719.Fri.]深尾先生からさっそくメール頂きました(恐縮です!)。庇下の柱だけが土台上に立つ理由は、庇を支えるだけなので荷重が小さく、施工性を優先させた形であると考えるのがひとつの仮説だろうと。たしかに。私ももう少し考えてみます。もうひとつ。前半の「土台の構造的意義は曖昧」という話への留保として、筋交いを入れる関係から言えば、現在、土台には重要な構造的意義がある、ということを付記いただきました。ありがとうございます。

[追記2:20130719.Fri.]深尾先生への返信メールを書いていて、ふと大事なことを思い出しました。建物本体と、庇下部分とでは、それぞれ帰属する場所の性質が違う、ということです。つまり、建物本体は民有地側にあり、庇下の柱は道路用地=官有地(公儀の土地)側にあるのです(ちょうど本体の外壁位置が、官民境界に相当)。幕府は民地の前面1間について、その一時的な使用を認めたのでしょう。その公式の関係(すなわち公式には一時的な使用であること)を(少なくとも立て前上は)維持しなければならなかった。その関係の建築的翻訳は、すなわち、庇下部分では基礎を使わない仮設的な構造をとる、ということであり、柱筋を決めるために土台を敷く構法が採用された、という考え方は成立しそうです。これも推理ですが。