熱帯雨林からサバンナに出てロジカルタイピングを身につけた我々ホモサピエンスについて。山極寿一『家族進化論』より。
研究室のサブゼミ(読書ゼミ)は課題図書を4冊指定して、4グループがそれぞれを読んで発表、ディスカッションし、さらに各グループの判断で次の読書や調査に展開してゆくというやり方をとっているのだが、家族社会学のグループが選んだ2冊目が山極寿一『家族進化論』(東京大学出版会、2012)だった。学生たちの発表を聞き、討議を深めてみると、今まで考えてもみなかったことに気づかされた。
何に気づいたかというと、ホモ・サピエンスという生き物が、その進化的分岐においてすでに、ロジカルタイピング(複数の論理階層を区別し、かつ架橋すること)の能力を抱え込んでいたという視点に、である。ちょっと読み過ぎているかもしれないが、たぶん外れていないと思うので、山極の論理の(私が)要点(と思った部分)をトレースしつつ、展開してみたい。
山極はオランウータン、ゴリラ、チンパンジーといった、共通祖先から分岐した縁の近いサルたちと私たちホモサピエンスとを比較の土俵に置き、一定の持続性をもつ夫婦と子の結合関係としての「家族」の形成をホモサピエンスの進化論的生存戦略の一部分として扱う。ホモサピエンスの分岐などというとひどく昔の話であるが、さらに前、およそ1500万年前におこった気候変動により樹上生活者たる霊長類たちは彼らの生態系である熱帯雨林の急激な縮退、すなわち生存環境の過密化という問題にぶつかる。共存可能な生存戦略の二類型を生み出したゴリラとチンパンジーは、残りわずかな熱帯雨林にシステム上のニッチを見つけて住み分けることができたが、サバンナに出ることを選んだ者たちもいた。その後も紆余曲折あるらしいが、500〜700万年前のさらなる寒冷化・乾燥化のなかで「完全に熱帯雨林と決別」し、独自の特徴を獲得したのが、我々ホモサピエンスである。
サバンナには捕食者(敵)が多いので、一定以上の規模の集団でもって彼らから身を守らねばならない。しかし、懐かしき熱帯雨林のように至るところに無尽蔵に餌があるわけではないから、食糧調達(開拓)のためには個体単位に分散して、相当の距離を柔軟に動き回らねばならない。
そこで彼らは、「採食/防衛」から派生する「分散/集中」という引き裂かれた要請を、集団形成の二重化という戦略で解いた。つまり、一方で最小の集団(=家族)を厳格に維持しつつ、同時に、大規模な集団(=共同体)にも所属するという、集合論的な二重性が獲得されたのだ。(正確にはそのような適応をした者たちがストカスティック=確率論的なプロセスにおいてホモサピエンスに「なった」のであって、それを事後的に見ると彼らが選択したとか、そういう方向を目指した、という表現になるのだがこれはもちろん比喩である。)
このことは生殖戦略にも反映されている。ホモサピエンスの「性」は、ペア的であると同時に乱交的なのである。チンパンジーは乱交的であり、したがって家族という単位は現れず、群れという単一レベルの集団しかない。ゴリラはハーレム的で、強い男のもとに女が集まるという形態の群れになるし、オランウータンは単独で生きるので、やはり彼らにも家族はない。家族とは、集団が何らかの単一レベルにしか設定されないときには決して獲得されない集団単位なのであるらしい。
インセスト・タブー(近親相姦の禁止)もこの視点から考え直すときわめて意味深い。親と子のセックスが禁止されるとき立ち現れるのは、世代を分つ厳格な境界線である(私たちは、近親相姦はこの線を「侵犯」することだと捉えるが、それは私たちが世代という観念をあまりにも自明なものとして疑わないことから派生する罪だ。インセストが普通に行われる社会には世代の境界線がないのだから侵犯もありえない)。そして実は、この境界線の厳格さは、親→子→孫・・という階層的な順序構造の確立だから、そこをタテに貫いて連なる一本の線=リネージの認識を立ち上げもする。もしインセストが常態であれば、系図は(もし誰かが厳密に追跡したとして、の話だが)とんでもなく複雑なものになり、その社会で意味のある集団は「群れ」だけで、その下位集団は定義不能、ということになる。
こうして、共同体という上位集団に参加しても揺らぐことのない下位集団としての家族の同一性が保証される。インセスト・タブーは、こう考えると、集団形成の二重化という戦略を支えるために肝要な制度だということが分かる。
そう、インセスト・タブーは社会的制度だ。しかし、生殖戦略や集団形成の二重化を抱え込むことがホモ・サピエンス成立の進化論的条件なのだと考えるなら、むしろ、社会性や制度というように我々が分類したくなるような現れを生む要因を、遺伝子レベルに組み込んでいるのだと考えた方がよいかもしれない(生物とは多かれ少なかれこうした社会性・制度性を抱えている)。そもそも、学問ディシプリンの線引き(これは生物学とか、これは社会学とかいう縄張り)は想像以上に私たちの認識の前提をつくっていて、社会制度の発生などという問題は生物学の領域の外、というようなことを普通に思ってしまうだけなんじゃないか。
ところで、ホモサピエンスにおける集団形成の階層的二重性というのは、どれほどホモサピエンスに特有のことと言えるのだろうか。考えてみると、どんな生き物も、生殖という契機において一時的にせよペアをつくらざるをえない。このペアを(テナガザルのように)長く維持する動物は、群れをつくる必要性を持たない生き方をしている。逆に生存にとって群れが第一義的に重要である場合はペアは瞬間的に現れるものの直ちに解消してしまい、群れの結合の一元性を回復し、維持しようとする。チンパンジー型=乱交や、ゴリラ型=ハーレムは、ペアが前景化することで群れの一枚岩が揺らぐこと(危機)を回避するための社会制度だとさえいえるのではないか。すると、ホモサピエンスはどんな動物も構造的に抱え込んでいる集団形成の二重化の契機を、生存戦略が揺らぐ危機と捉えず、二重のままに抱え込むかたちでの進化をはじめて遂げたやつら、ということになるのかもしれない。
すると、私たちホモサピエンスは、こうした社会の階層的二重性、これを個体からみれば、自身の行動を位置づけるコンテクストの階層的二重性ということになるが、そういう二重性をつねによく認識し、それを乗りこなさなければならないように宿命づけられており(これをうまくやれないやつは生き残れない)、つまり、私たちの脳はロジカルタイピング(論理階型の区別や積層)に適したつくりをしている、と考えられよう。論理階型の二階層が区別できる者ならそれを三層、四層・・といくらでも積層させるように展開可能だろうし、また、それを自分たちの集団のことだけでなく、自然界でも何にでも同様の論理構造をあてはめることによって、世界認識を多重的・立体的なものとして押し広げていくことができるだろう。
こうして、バートランド・ラッセルが論理学において確立し、グレゴリー・ベイトソン、ウンベルト・マトゥラーナといった人たちが人間の認知やコミュニケーションや社会形成、あるいは宇宙の全体性にまで適用して受肉させたような世界観に、山極の家族進化論もまたきわめて美しくつながっていくのを直観する。論理というものは、観念の産物にすぎない、とはとても思えないのである。