継承と批判はほぼ同義なんだね。

 受け継ぐという意志のない批判は批判にならないし、批判の意志を持たない継承は継承でない、そういうことなんだな、と思う。とくに最近気になるのは後者の方なんだけど、実際、批判的契機をもたない継承は細分化(分担制)にしかならない。別の言い方をすると、批判は生産だし、生産は批判なんだね、人間社会というものの成り立ちからして。批判を機能させなかったら分担的に先細りになり、閉塞する。それを自己肯定しようとするもんだから、批判しないことによって開かれる可能性があるんだとかいう態度になるんだけどさ、そんなの自分がそのなかで生きざるをえない枠組みをより巧妙に丁寧に埋めることにしかならない。その態度に対してあなたはどんな責任を取っているのかという問いに突き当たった時、自分には自分の所属するコミュニティの射程しかないことを認めざるをえない。その射程のなかでどんなに戦略的であっても、大した意味はないと思う。もちろん簡単に言えることじゃないんだけど。

 閑話休題。最近の僕の読書は逃避的に乱読。というわけで最近読んだ本の紹介。
 まずは遠藤薫『大震災後の社会学』(講談社現代新書、2011)。5人の共著なのだが、僕の視点からは遠藤さんの書いたいくつかの章がダントツで面白い。とくに第1章「大震災と社会変動のメカニズム」。三層モラル・コンフリクト・モデル論が素晴らしくよい。疑問がないわけではないが、いま重要なのは大きな論理を投げ込む姿勢だと思うし、モデル化したときに古今東西の事象がすべてひとつの土俵に乗る(頑張って乗せるのだが)という、その醍醐味には棄て難いものがある。
 塩野七生『海の都の物語:ヴェネツィア共和国の一千年』全6巻(新潮文庫、2009)。初版は1981年。これ面白いよ。かく言う僕はまだ2巻なんだけど、ヴェネツィアという農業的基盤の薄弱な小さな海洋国家がいかにして地中海を経済的に支配したか。それは独裁的帝国の論理ではなく、むしろそれを拒否する商人の論理なのだということが生き生きと描かれる。社会システムが平易な言葉で立体的に明らかにされ、かつそのシステムを生きていく男たちの群像が活写されているので、どんどん次が読みたくなる。現代の、企業資本と野合しつつ官僚が隅々まで支配する国家のことを読みながら時々考える。
 森谷公俊の『アレクサンドロスとオリュンピアス:大王の母、光輝と波乱の生涯』(ちくま学芸文庫、2012)。初版は1991年。もう、古代ギリシア世界の似たような名前の人々、というか同じ名前で違う人が一杯出て来るし、すいすいついいていける本ではないのだが、面白い。塩野さんの本と好対照。血まみれの露骨な軍事的・政治的乱闘の話だし、なのに男よりもむしろ女たちの世界を復元しているのがすごい。古代世界があんなに細部まで再構築できるものとは知らんかった。