柳田国男と産業組合:藤井隆至氏の評伝ならぬ評伝を読んで

ちょっと前に、藤井隆至『評伝 日本の経済思想 柳田国男:『産業組合』と『遠野物語』のあいだ』(日本経済評論社、2008)を読んだ。

よく知られていることとは思うが(僕は不勉強だった)、柳田国男(1875-1962)は、東京帝国大学で農政学を修めた後、1900年「産業組合法」の成立直後に農商務省の高等官僚となり、産業組合の地方普及を仕事とした。1年半の農商務省勤務ののち1902〜14年の法制局勤務中には頻りに地方出張に出て見聞を広め、1919年に官僚生活に終止符を打つ。この間に旺盛な執筆活動を展開するが、その皮切りが『産業組合』(1900〜02頃)で、『遠野物語』(1910)も官僚時代の作品なのである。

本書は、『産業組合』と『遠野物語』がなぜ同じ著者によって書かれたのか、という問いをめぐる評伝(らしからぬ評伝)である。僕は専門領域に通じていないが、著者の目論見は、柳田を「協同組合の思想家」として描く、あるいは柳田の農政学から民俗学への転向を「連続」の相において捉え直す、この一点に集約される。一般読者向けのためか「です・ます」調で短文を連ねていくスタイルはややたどたどしくもあるのだが、僕はたいへん興味深く読み、教えられることが沢山あった。

著者のように僕もあえて単純化していえば、本書を読んだのは(本書がふれていない)昭和三陸津波(1933)と昭和という時代のことを考える補助線としてである。本書は『遠野物語』まで、つまり1910年頃までを扱った本なので、本当に補助線として、である。

昭和津波の復興は、日本の社会政策史上、重大な意義を持っているのではないかと最近考えている。1929年世界恐慌、1931年満州事変。以後実力をもちはじめる「新官僚」による、政党政治から相対的に自律的な右翼革新主義的な政策展開。これが昭和三陸津波の漁村復興にダイレクトにつながっていく。疲弊著しい村落社会を自活的な経営体に仕立て直しつつ、補助金・融資によりコントロールする、それが1932年にはじまる農山漁村経済更生運動だったし、同年、そのための政策ツールとして機能するよう産業組合法を改正したところに、翌年三陸津波が起きた。そこで産業組合を復興のツールとして援用することを通じて、経済更生運動を実効化する実験場として災害復興を利用としたと考えられる。実際、産業施設の建設、住宅再建、漁船や漁具の購買などのために被災町村に産業組合を設立させ、それを中央の掲げる事業メニューにしたがって融資を落とす受け皿としたし、半ばユートピア的な理想的新漁村計画のモデルとされた村もある。

他方、この津波「以後」の集落変容について民俗地理学的にすこぶる貴重な記録を残したのが、会津出身の地理学者・山口弥一郎(1902-2000)だが、彼は被災地の調査に入る直前に、ひと世代上で還暦間近の柳田国男に助言を求める機会を得ている。客観的な地理学的調査にとどまらず、漁民たちの民俗的想像力と地理的表象とを一体的に捉えよ、というのがその助言だったと山口は書いているが、柳田の脳裏には、産業組合のことがあったろう。本書を読めばそう思わざるをえない。

本書によると、資本主義経済の進展のなかでナショナルあるいはグローバルな流通網が形成され、農山漁村が都市商業資本に従属させられ疲弊していく様を見ながら、柳田は産業組合を拠点とする生産地共同体の再生のありようを模索した。しかし現実には農政の政策主題は生産力増強であり、そのための補助金の投入であり、農商務省時代の柳田はそれを批判して上司と対立した。補助金はますます生産者を骨抜きにし、肥大する資本主義経済に従属させることにつながるし、問題は生産力増強ではなく、持続的な社会経済システムの構築にあると彼はみていたからだ。そのとき、西欧を源流とする、草の根的な協同組合の理念をもたない日本においても、近世以来の共同体のなかに日本型協同組合の原型を求めうると考え、そうした断片を地方行脚のなかで探し求めた。

ところで柳田の眼は、感傷的・倫理的であるより数学的・経済学的だ。農村を都市を含めたシステムのなかで捉えているし、過去をみるときもそのシステムの遷移と捉える観点がうかがえる。資本主義は巨大なシステムを育て、中間的なサブシステムを骨抜きにしてしまう。柳田にとって民俗学はこうしたサブシステムの発見だったのだろう(地名や方言の研究もある)。その意味で1930年代初期の新官僚による産業組合の活用は、柳田の考えとはまったく対立するものであったろう。それはまもなく戦時総動員・統制経済につながるものであったのだし。

だから昭和三陸津波後の中央官僚の動きを、柳田がどう見ていたのかが気になる。山口に会ったとき、柳田は本当は何を語ったのだろうか。

本書を読みながら、そんなことを考えた。いずれにせよ、災害復興にかぎらず(あるいはそれをトリガーとして)日本の社会政策は、資本主義・土地私有制を前提としつつ、政策メニューと補助金・融資のセットにより官僚機構が隅々まで統治する、という体制を敷くことになる。その画期が、1930年代前半にあることは確かだろう。

余談ながら、建築家だってこの体制のなかで動かざるをえなくなるわけで、そのへんの矛盾が一挙に議論として噴出するのが1970年前後だと思うのだが、それはちょうど件の体制がほぼ完成を迎えたときだった。今も同じ問題。