計画都市・台中が、存外おもしろいのである。

2012年12月29日から2013年1月6日まで台湾に行ってきた。今回は調査でなく、講演のため。
20130103_lecture_001ひとつは1月3日、東海大学にて大学院プログラムのなかのアジアの都市建築に関する授業の1コマとして(翻訳=張亭菲)。台湾の院生に台湾都市の概説は不要なので、まずティポロジアからはじめ、吉貝サーヴェイでのティポの生成論、つづいて列壁都市+wall to wall architecture、さらにアノニマス修復論、そして都市建築史と環境史の接続など。列壁都市論はウケたみたい。イメージ喚起的だからかな。

20130105_lecture_001もうひとつは1月5日、台中市中區再生基地というまちづくり拠点での講演(翻訳=張亭菲)。日治期(日本植民地期)に台湾の都市景観や生活文化はどのように変化したのか。それを神社境内と公園の併存から分離へ、都市の改造と寺廟の整理、寝室の変容という3つのテーマでお話しする。みなさん寝床の変化には興味あるみたいで質問はぜんぶこれに集中。

734326_354220224676594_1133803416_n写真は1月5日の講演の様子。戦後すぐの建物の吹き抜け部に床を張り、内装を剥いで再利用している。少し前に招待された写真家・浅川敏さんが撮った台中市街の写真群が展示されていた。台湾の街にはこういう荒っぽいがいい感じのリノベ?がいっぱいある。

これら講演は、東海大学の蘇睿弼先生のお招きによるもの。蘇さんは香山寿夫先生、大野秀敏先生に師事して学位を取得。母校の東海大学に戻り教鞭をとる一方で、旧市街の急激な衰退に悩む台中市の都市計画・都市デザインにも携わる。

196907_356290444469572_1134538918_n蘇さんには初めてお会いしたのだが、彼が旧市街(中心市街地)を案内してくれ、そしたら台中市が俄然面白くなってきた。

※これら2枚の写真は台中市中区再生基地より拝借。


 清末に台湾は国防上の重要度があがり「台湾省」に格上げされるんだけど、その行政拠点「省城」は台中に置かれることになり、建設は着手されたものの間もなく中止され、台北にその座を譲った、という経緯がある。その後、植民地政府により台湾中部の行政・経済中心都市として位置づけられ、整然たる碁盤目状の市区改正計画により建設された。だから新都市のイメージが強く、僕はあまり興味が持てなかったのだが、不明を恥じるべしだなー。計画都市だからこその面白さがある。
 歴史的基盤が薄いので、植民地政府は台北・台南・新竹・彰化・嘉義などの既成市街地の改造とは違う、純然たる効率的グリッド都市を実現できた。駅、政庁地区、公園(+神社)、市場などでフリンジを定義し、官舎地区などの低密な要素は外側に置き、内側に2〜3層の町屋を詰め込んだ均質な市街地をつくる。1935年頃のデータで人口5万人。うち日本人が25%を占めるが、これは極端に高い比率だし(ちなみに彰化は6%)、新都市だから、漢人都市に日本人が食い込んでいくという他の植民都市の構図と違い、出自の異なる人々が集まって新都市をつくり、活気ある経済と文化をつくりあげていくという自由で進歩的な雰囲気が醸成された。
 このコンパクトで高密で均質な市街地が、植民地解放後の60-70年代に、一斉に中層〜高層のビルに共同化されていったらしい。町屋は間口5m程度の単位で所有が切れているが、これを10〜20個、あるいはもっとたくさん集めてひとつのビルに建て替える。従前の所有権や賃借権はたいてい建替え後のビルの土地や床に変換され、むろん新規の入居者をたくさん集めることで建設費をひねり出すのだから、権利関係は一挙に多数・複雑になる。
 そのため90年頃になって再開発のタイミングが来ても合意形成ができず、かわりに郊外部の大規模開発が促進されることによって、急激かつ一斉に空洞化した。いま中区の人口は2万人しかなく、中高層ビル群は、1棟まるごと廃墟とか、空室だらけとか、一階の店舗がシャッターを閉めたままとかの状態。老朽化したストックがスポンジみたいにスカスカになっているが、目には見えない大量の権利が錯綜しているわけで、しかも開発ポテンシャルが上がる気配もなく、ときどき持ち上がる再開発の話も頓挫してばかり。
P1050326 こういうところでは結局、家賃を下げて賃貸に出すしかない。入居するのは低所得者層か、ちょっと面白いことやったろかっていうアーティストとか学生たちとか、一風変わった商売を仕掛けようっていう跡取り息子とか、それこそまちづくり拠点みたいなものとか。

ほーと思ったのは、1960年代に建設された高層アパートと映画館のコンプレクスで、映画館も閉鎖されて久しいんだが、この複合ビルの広大な1階フロアが土曜日だけ「玉市」になる。玉(ぎょく)、つまり宝石類の市場が開かれるんだけど、どうやら地主と契約して場代をとるテキ屋みたいなのがたくさんいて、そいつらが半坪(〜1坪)くらいの机面をだいたい500元(1500円)/日で貸している。台湾の賑やかな夜市の場代と比べると半分くらいかな。うん、相当おもしろい。

 まあ色々興味深いことがいっぱいあったのだが、とにかく台中の中心市街には60-70年代のストックが集中的に大量に残っているということ、それが植民地期の街屋(町屋)の権利関係を再編したものであることが、歴史屋的には重要だったりする。なぜかって? まあいいじゃん。