歴史とは種々の出来事が綴り合わされた一筋の長い連鎖にほかならぬ(大江新太郎1924)。

90年前に書かれた感動的な文章に出会って涙が出たので書き写しておく。(旧漢字・旧仮名使いは適宜今日的に改める)

 一体、歴史というものは、昔から今日までの長い間に起った、種々の出来事が綴り合された一筋の長い連鎖にほかならぬ。その一つ一つの出来事がすなわち一つ一つのリンクをなしているのである。
 さて、昔から祖先の遺してくれた数十百千のリンクを詮議してみる。何某が何々のことをしてけり、何々のことはこの時よりぞ始まりける、何々を改めて何々となす、何々を興す、何々を廃す、造る、壊す、繕う・・・まずこんなことがリンクの大半を占めている。
 手丈夫に出来のよいリンクもあれば、脆弱不出来の作もある。しかし、いずれもみなその時々の時人が、各信じるところに従って努力の作をなしたものである。中には甲の時人の作を悪作なりとして、乙の時人がこれを全然つくりかえて成功しているものもあれば、また失敗しているものもある。また丙の時人が甲乙両時人の作柄の成敗にかんがみて、全然創作的新規軸[ママ]を出して、これまた利鈍いろいろの結果を残しているものも見受けられる。いずれにせよ、代々の時人が各自その信ずるところにしたがって、それぞれリンクの製作に最善の努力をしたことはうかがい知れる。
 そこで、我々もまた代々の祖先と同様、我々の時代のリンクをつくっていく・・・(大江新太郎「社寺復興の理想と建築」『新しい東京と建築の話』時事新報社1924年7月 p260-262)

関東大震災を踏まえて、これからの神社をどうするか、という主題で大江が書いたもの。この文章を収めた本が出た1924年に、大江が伊東忠太の下で1907年から指揮してきた日光東照宮の明治・大正度大修理が完了している(前任の木子清敬・星野壇三郎体制での工事着手から数えて実に24年を要した大工事である)。上の文章に、日光の経験が色濃く投影されていることはまず間違いない。
大江は、寛永造替後に重ねられてきた修理がその都度漆や彩色を真新しいものへとつくり直してきたことに対して、それら修理に、その時代の何かが混入することを認めつつも強度をもった継承性が存することに信頼を賭け、同様の修理を重ねる態度によってリンクをつないだが、当時、けばけばしい極彩色を蘇らせたことに厳しい批判が浴びせられた。詳しく知りたい人は内田祥士『東照宮の近代―都市としての陽明門』(ぺりかん社、2009)を読むべし。
上の文章の後、1926年から大江は滋賀県の多賀神社改築工事を総監督として指揮し、古社の社殿・境内を大胆に再編してみせたが(1933年竣工)、その社殿群は本当に惚れ惚れするような傑作だ。櫻井敏雄先生も、神社建築の驚くほど豊富な知識を備えたうえで、眼前にある歴史の堆積としての既存の社殿に、現在の要請に根ざした独自のデザインを、丁寧に縫合しつつ重ねたものだという意味のことを書いている(「伝統様式からみた近代の神社」『近代の神社景観』1998)。
東照宮と多賀神社での大江の仕事は、「我々の時代のリンクをつくる」ことに全霊をかける態度において根本的に通じるものがある。(ただし微妙にして大きな変質がないとは言いがたい部分もあり、そのきっかけとなったであろう事件が1921年頃にある。ここで書き始めると大変なことになるのでやめるが、内田先生の分析を展開させて検討を深める余地はある。いずれにせよ1920年前後には20世紀的なものの形成にまつわる奥深い変転を示す出来事が色々とある。)

さて、明後日(2012.10.20)は明治神宮にてシンポジウム。近代神社史における、伊東忠太(19世紀的なもの)から角南隆(20世紀的なもの)への体制転換の間に、決定的な「リンク」としての大江新太郎を入れて一筋の連鎖を描き直す、というような報告をする予定。