70%ってこと、馬脚を現すってこと、ジェネラルにならぬこと。

ということを今日教わった。「建築雑誌展2010-11」トークセッション2日目(20111216 Fri.)。中谷前編集委員長と現編集委員長のわたしの対談で、モデレータは内田祥士先生。
talk_aoi_02-1(写真は24冊の建築雑誌の上で、9月号年報のために作成された「建築雑誌」創刊時のタイトルロゴの印刷金型をお披露目している模様。中谷さんから青井への引き継ぎ式。写真は建築雑誌展2010-11サイトより勝手に拝借。お許しを。)

 僕からは2010-11で印象に残った特集として2010年3月号特集「ナイーブ・アーキテクチャー」と2011年1月号特集「未来のスラム」をあげた。これがある意味で2年間の建築雑誌の両極を示していると思ったから。前者は今日の建築家のセンシティビティというか、建築をとりまく諸々の条件へのリテラシーの高度化(繊細化)という2000年代の兆候を検証する特集であり、後者はそんなものを吹っ飛ばしてしまうようなネオリベラリズムの経済的・政治的暴力が都市や住まいに何をもたらすのかという、M・デイビスが突き上げるやはり2000年代の兆候的問題を扱っている。が、後者のキーワードに生態学的視座(の有効性の検証)があり、前者の「ナイーブ」も建築を取り巻く諸関係への生態学的な眼差しの謂いだとすれば、両極にみえる両者が実はつながっている。
 「ナイーブ」なリテラシーが海外ではおそらくほぼ通じないこと、一方で国内的には簡単にイデオロギー(とくに日本的なそれ)に転じうること、繊細なリテラシーに沈潜していくときに見えなくなるものがあることは重要。ぼくは今日の建築家のこうした兆候を「ピクチャレスク」という概念で捉えられると思っていて、つまり強い規範が失われたとき、偶然的・個別的条件への繊細なリテラシーを方法に転化し、特殊なキャラクターを析出する根拠とするようなつくり手の態度なのだが、それは現実をつくっているパズルの読み解き方を豊富化するものの、パズルをより洗練されたやり方で埋めてしまう危うさを持っている。しかし都市への生態学的視点も実は同じ問題を抱えているだろう。それが可視化する世界の解像度が高いほど、それをどう使えばよいのかが分からない。
 そのあたりのズブズブ感ををどうしたらよいのかというのが僕個人にとっても問題なのだが、10年前とは比較にならないほどその問題は広く共有されつつあると思う。中谷さんからも都市の生態学の難しさとか、どうしたらよいか分からない違和感みたいな話があった。内田先生からはリテラシーの高度化がいろいろなことを「見える」ようにしていくことの息苦しさのようなものが指摘された。内田先生はやっぱりすごくて、先生自身がほとんど日常的なもどかしい違和感みたいなものをすべての出発点としていることの強さがある。でも僕としては出来うるかぎり生態学的なリテラシーを鍛え上げつつ断片的でよいから魅力的なドキュメントを生産していくことしか出来ないと半ば思っている(それが何なのという疑問は抱えつつ、ではある)。ところで断片的であることは、生態学のホーリスティックな態度と矛盾するかもしれないが、でも断片的であることの意義というか、断片的であることを認める倫理というのかな、そんなこともちゃんと考えてよいかもしれないと今日思った。
 編集委員長としては、災害後という切実な状況に対して100%付き合ってしまうと(100%のリテラシーを発揮してしまうと)、かえってジェネラルな議論しかできない、ということを今日は教訓として胸に刻みました。内田先生、中谷さん、そして日埜直彦さんにも感謝しつつ、おやすみなさい。