2011年9月4日〜7日・三陸沿岸の40集落ほどを巡る。
三陸海岸の集落 災害と再生:1896, 1933, 1960の情報を、現地の景観に重ねるという単純な読み取り作業をひたすら繰り返した。学生たちと一緒に4日間。思っていたより聞き取りもできた。皆さん親切に応対してくださったというか、むしろ話したいことが山ほどあるという感じだった。
正直言って、どうしたらよいかは分からない。ただ、(作為にせよ、無作為にせよ)凍結の時間がものごとを篩にかけてしまうだろうことは明白に思われた。
集落のかたちは、地形/土木構造物/施設配置/地割+家屋といった諸要素が互いに響き合って形成されている。三陸の場合、ここに数十年に一度の津波+再生という特異なリズムを加味すれば集落景観を「読む」ことはできる。むろんそのリズムは純然たるサイクリックなパタンとは違う。その都度の人間の選択が痕跡を残し、未来を連鎖的に決定していくからだ。
たとえばある集落では、津波に洗われて露出した宅地を実測したところ、間口5間で奥行きを深くした整然たる地割を確かめることができたが、それは明治三陸津波後に盛土してつくった集落の画地が今日まで生き延びてきたという事実に触れた瞬間だった。地域の家屋形式を踏まえれば、ここには代々妻入りの建物が並んできたと考えられる。別の集落では、昭和三陸津波直後に斜面を削ってできた新しい宅地に1937年頃に建築したという妻入りの家屋がいまも健在であることを知った。
約40年離れたこれら異なる二つのモノは確実に同じ文脈のなかにある。それに比べ、1970年代以降の変容はドラスティックだ。防波堤・防潮堤・港湾施設などの巨大な構造物は集落のレイアウトを再組織化するだけの強い規定力がある。漁業も産業的な体制を整えるとそのための施設を要求してくる。家屋もまた、過去の連続性をやぶり、全国どこでも見るような破風をいくつも連ねた御殿風のものか、工業化材料でできたインク瓶みたいなものになる。
今日の漁村はすでにグローバル経済のなかで見なければならないし、国家・資本を前提として成立してしまっている。実に、家屋が数棟しかないような集落にまで、城壁のごとき防潮堤が建設されている。1970年前後以降と思われるこうした設備は、小規模の高潮や津波に対する安全性を高め、それが集落全体のレイアウトを変えてきたと思われるが、3.11のような大規模な津波被害に対してはむしろ再生への弾力性を明らかに落としてしまう。防波堤が壊れ、また港湾も沈下した状態では、たとえ船が(たとえば九州の造船所から2ヶ月後に)納品される見込みが立ったとしても、それを港に着けておくことすらできないが、これら構造物は国家予算なしにはとても修築できない。こうした矛盾を果たしてどう見ればよいか。
9月〜10月初旬は建築雑誌2012年1月号の対談・インタビューが目白押し。議論を深めたい。
*写真上=田浜(綾里)、中=本郷(唐丹)、下=桑浜(箱崎)
今回の旅程:
■2011年9月4日(日)
田老(宮古市田老)
宮古(宮古市)
女遊戸(宮古市崎山)
津軽石(宮古市津軽石)
釜ケ沢・堀内(宮古市津軽石)
里(宮古市重茂)
姉吉(宮古市重茂)
金浜(宮古市磯鶏)
石浜(宮古市重茂)
千鶏(宮古市重茂)
大沢(下閉伊郡山田町)
山田(下閉伊郡山田町)
■2011年9月5日(月)
前須賀(下閉伊郡山田町)
大浦(下閉伊郡山田町)
小谷鳥(下閉伊郡山田町)
田ノ浜(下閉伊郡山田町)
船越(下閉伊郡山田町)
吉里吉里(上閉伊郡大槌町)
赤浜(上閉伊郡大槌町)
大槌(上閉伊郡大槌町)
根浜(釜石市鵜住居町)
箱崎(釜石市箱崎町)
桑浜(釜石市箱崎町)
両石(釜石市両石町)
■2011年9月6日(火)
釜石(釜石市)
花露辺(釜石市唐丹町)
本郷(釜石市唐丹町)
小白浜(釜石市唐丹町)
片岸(釜石市唐丹町)
本郷(大船渡市三陸町吉浜)
浦浜(大船渡市三陸町越喜来)
泊(大船渡市三陸町越喜来)
甫嶺(大船渡市三陸町越喜来)
崎浜(大船渡市三陸町越喜来)
■2011年9月7日(水)
田浜(大船渡市三陸町綾里)
港(湊)+岩崎(大船渡市三陸町綾里)
大船渡(大船渡市)
細浦(大船渡市末崎町)
唯出(只出)(陸前高田市小友町)
六ケ浦(陸前高田市広田町)
高田(陸前高田市)
長部(陸前高田市気仙町)
大沢(気仙沼市唐桑町)
只越(気仙沼市唐桑町)