開かれない世界遺産?

 高木博志先生(日本近代史:近代天皇制の文化史的研究/京都大学人文科学研究所)が『中央公論』2011年7月号にお書きになった「世界遺産の前に考えるべきこと:閉鎖的な管理をやめ古墳時代天皇陵を公開・活用せよ」を送ってくださった(いつもありがとうございます)。とても興味深い内容。
 政府は「百舌鳥・古市古墳群」(堺市藤井寺市羽曳野市)を世界遺産登録のための国内暫定リストに記載することを決定した。報道等を見ると、エジプトのピラミッド等と比べるべき古代の墳墓遺跡であり、これまでに数十の古墳が失われてきたことを踏まえて残る数十の古墳群を守る必要があると政府や自治体は主張しているようだ。世界遺産登録は当然だという論調もある。しかし・・・。
 いわゆる天皇陵の「治定」(個別の古墳を、特定の天皇の陵墓と決めてゆく作業)は幕末文久年間から明治22(1889)年までのあいだに行われた(ほとんどが幕末)。それから120年がたち、いうまでもなく学知のあり方は大きく変わったが、この「治定」の結果は凍結されたままで、天皇陵と決められた古墳は宮内庁管理下の皇室用財産、かつ「御霊のやどる」神聖な領域として囲い込まれている。公開による研究なしに、市民への開放もなしに、また(一般には世界遺産登録の前提となる)文化財保護法による指定を経ることもなく、世界遺産という土俵へいきなり投げ込まれる唐突さは考えてみればすさまじい。
 いうまでもなく、ここには「万世一系」論の問題がある。天皇家がいまも生き続けており、ゆえに古墳もまた「御霊のやどる」場所としての意味(アウラ)を存続させているというわけだ。ピラミッドのように意味の断絶のうえにある「遺跡」とはまったく異なるあり方をしている(規定されている)ことになる。もちろん天皇陵をめぐるこの論理は近代に創られたもので、そのために古代の創造と、近世の忘却という、近代天皇制にはつきものの派生的問題もある(古墳時代の大王と律令以降の天皇は連続的でない。近世の天皇陵はお社やお堂が付属して地域に開かれた安産祈願の場だったりした)。高木先生はかくして(高槻市の今城塚古墳を望ましいモデルとして例示しつつ)、天皇陵の公開・活用を訴える。詳しくは是非記事を読まれたい。
 拝読していろいろ考えてみた。
 国民国家の修辞は、幕末明治期には博覧会みたいに他の国家群と同一平面上に日本を並立させ、対等の国として人やモノを交換することを前提として編成された。明治期の「日本」論はだいたいそうなっている(19世紀的学知に対応)。しかし、(たとえば明治神宮の森がそうであるように)大正あるいは昭和初期には「日本」はこうした交換可能な平面からズレたところに巧妙な文化論によって確保されるようになる(20世紀的学知に対応)。しかし重要なのは、こうした議論が知識人、ときに国民的にも広く開かれていたことだ(明治神宮は専門家だけでなく政治家から国民までが関心を集める事業だったからこそ、最も主張のない社殿と最も自然らしい森によって国民的に了解・共有されうる20世紀神社の環境的イメージを生み出すことになったのである)。しかし、陵墓の場合、交換価値としての「文化財」(文部省-文科省)に対し、そこからズレた閉域としての「皇室用財産」(宮内省-宮内庁)という、過去や遺産を捉える枠組みの二重化がそのあり方を支えているといえそうで、いちはやく不可侵の領域がつくられたという点で特異だ。
 ところで高木先生の論考でも最初に登場する誉田山古墳(羽曳野市)は応神天皇陵に「治定」された墳墓だが、その西側に、キレイな前方後円墳の立体が崩れた箇所が南北に走っている。寒川旭『地震考古学―遺跡が語る地震の歴史地震考古学―遺跡が語る地震の歴史』(中公文庫、1992)によればこれは活断層のラインで、この陵墓が建設後に地震により部分的に破壊されたことを示しているのだが、こうした事実の解明が、奇妙なほどの開放感をもって響く。そこでは陵墓が、普遍的な眼差しを受け止めうる、意味(アウラ)とは無関係な事物としてふいに現れるからだ。中谷礼仁さんが大阪市立大時代に学生さんたちとやっていた都市連鎖研究体は、古墳群がその形態において周囲の道路や住宅地形成に強力な影響を及ぼし、たしかに現在という存在のネットワークを構成していることを示した。そこにもまた、事物の普遍的な世界が開けていた。
 こうした「開かれる」感覚なしに、世界遺産も何もないように、私にも思われる。