私たちは都市という形で組織化されている;ジェイン・ジェイコブス『アメリカ大都市の死と生』

 昨日は学生たちと5時間半かけてジェイン・ジェイコブス著・山形浩生訳『アメリカ大都市の死と生』(鹿島出版会、2010)(”The Death and Life of Great American Cities”, 1961)を読むという贅沢な時間を持った。このところ胃が痛くなるようなことが多いが、これでずいぶん元気が戻った。やっぱり古典をちゃんと読むことは重要。むかし旧訳版を読んだきりだったが、訳出されていなかった後半もめっぽう面白い。
 訳者の山形氏もあとがきに書いているように、リーダース本などで普通に紹介されるようなジェイコブスの再開発批判とかボトムアップ型のまちづくりの重要性みたいなことをそのままありがたいご宣託のごとくトレースしても、今となっては当たり前のお話じゃないかという落胆が待っているだけだろう。けれど、ジェイコブスは「都市とはどういう種類の問題か」と問うている。都市とはひとつの問題であり、それはいかに解かれるべき問題なのか、というわけである。
 ひとことでいえばこの本は、人はいかに都市をつくりうるかという問いから、都市はいかに人によってかたちづくられるのかという問いへの転換である。この二つは形式上は構文を換えただけだが、含意される前提がまったく違う。前者の「人」は何か公益的要請(というものがあると仮定して)を代理するプロフェッショナルなプランナーやデザイナーのことであり、後者の「人」は多様な異なる役割を担って相互に作用しあう人々のこと。もちろんいずれも代理人といえるが、何を、どのように代理するのかが違う。前者は公益の名の下に架構された「都市」を集約的・包括的に、後者は生きたシステムとしての「都市」を部分的・分散的に代理する。
 本書を読み終わると彼女のこうした立場が明瞭に浮かび上がってくるし、スティーブン・ジョンソンが『創発』(山形浩生訳、ソフトバンク・クリエイティブ、2004)でジェイコブスの都市論を引用した理由もよく分かる。ジェイコブスは最終章で我々人間こそが「都市という形で組織化されている」とすら述べている。このあたりの視点の変更が、先日ちょっと紹介した『都市の原理』(中江利忠・加賀谷洋一訳、1971,2010)では古代史にまで敷衍されていたわけである。
 それともうひとつ。柄谷行人『ジェイコブズ対モーゼス―ニューヨーク都市計画をめぐる闘い』(渡邊泰彦訳、鹿島出版会、2011)の書評(朝日新聞)で書いているのだが(→こちらを参照)、ジェイコブスはこの理論をもって再開発反対運動をはじめたのではない。運動を通して学び、理論化したのである。そこに研究者の眼に耐えられるだけの厳密性がないことを批判するのは積極的ではないだろう。逆に、ジェイコブスが訴えた考えはいまやその衝撃すら分かりにくいほどに多くの追随者を生んできたのに、今まで『死と生』を厳密な理論に鍛え直す仕事をした人はいるのだろうか。