小さなピクチャレスク

 昨年5月号より『新建築住宅特集』でエッセイ(前号感想)とコラム(近作訪問)の連載をやらせてもらっていて、今週末の近作取材(4月号掲載分)で1年間の仕事が終わるというところまで来た。届いたばかりの3月号では前号特集「小さな家」についての感想を書いたのだが、この短文では1年間で学んだ論点のひとつを書きとめつつ、馬場正尊・塚本由晴のお二人の論考とどう接続するかを考えた。
 大方の反感を買いそうな気がするが、近年の建築の傾向を示す言葉としていま僕が一番相応しいと思うのは「ピクチャレスク」である。必ずしもたんに「絵画的」ということではない。ピクチャレスクの本質は絶対的規範の解体にともなう個別性・偶然性の肯定ともいうべき精神だからだ。18世紀末〜19世紀のピクチャレスクでは、唐突さ、不規則さ、あるいは混合的なもの、複合的なものがもたらす楽しみが求められ、起伏に富んだ地形や樹木や池、そして古今東西の様式カタログが動員された。今日の小住宅では、同じような楽しみを、厳しい敷地条件、法規、施主の仕事や性格などなどからの「方法化」と、空間構成や構法・ディテールの小さな「発明」とによってつくり出す。家とはこういうもの、という既成の規範はない。方法的に解体され構成しなおされる。そこに建物に個別的なキャラクターが現れる。『住宅特集』に載る建物にかなりの割合でニックネームがついているのは、建物に表出するキャラクターをその個別性を殺さずに的確に表現したいという建築家の欲求の現れだろう。編集側でも、極大(見開き)から極小(2cm角くらい)までの写真を並べて、街や人や家具やディテールといったその家の固有性を伝えるのに必要な情報を個別的に選択して網羅する。前にも書いたが、ロウが18〜19世紀の鍵概念として論じたのは「キャラクターとコンポジション」だった。
 風景や様式がもつ意味の知識(リテラシー)のかわりに、今日の(日本の)ピクチャレスクは、都市・法規・施主・材料・構法・・・など、フラットに並列された建築のあらゆる成立要件に対する相当に繊細な読み書き能力(リテラシー)によって支えられている。大きな庭園をもつ邸宅などでなく、「小さな住宅」ほどこのリテラシーの繊細さは際立つわけで、だから「小さなピクチャレスク」とでも読んだらどうかと思ったのである。
 このような設計態度は都市リテラシーを高度化し、解法のレパートリーを拡げる。これはすでにとても豊かなアーカイブへと成長していて、これからも広がってゆくだろう。このアーカイブの有用性は否定すべきでない。しかし他方で、都市リテラシーが高まれば高まるほど、解法のレパートリーが広がれば広がるほど、都市や住まいを構造づけているより大きな諸条件はより洗練されたかたちで補強されてしまうだろう。この壁を突破できるシナリオなんてあるんだろうか(新しいものはいつもシナリオに収まらないから新しいんだけど)。塚本さんの「町家」はどのあたりを目指しているんだろうか。日本の住宅建築家のうち第三世界で仕事できるのは誰と誰だろう(急に飛びましたが)。いろいろ考えてみる。