建築雑誌201102・特集「建築論争の所在」

 『建築雑誌』2011年2月号が届いた。毎年2月号は前年大会の概況報告が掲載されるので特集はややボリュームが小さくなるが、今回は小特集「建築論争の所在」。近代日本の建築論争は、それぞれの時代の(顕在的・潜在的な)建築論がそこに向かって対立の束として凝固される(対立的にパタン化・類型化される)と同時に、その対立の平面からズレる異分子を混入させるような場であった。それが認識の進化というか、脱構築を促す。この特集は、そんな近代日本の「建築論争」を回顧しつつ、むしろ現在なぜそうした論争が生まれないのか、あるいは論争がないように見えるのかを問うもの。
 山口廣先生の巻頭インタビューは含蓄深い。と同時に、お話の全体に、先生と明治大学の堀口捨巳・神代雄一郎ラインとの深い関わりがにじみ出ていることに気づく。
 隈研吾×岡崎乾二郎の公開対談は二人の切れ者ですから強力きわまりない。岡崎の「四元構造」ダイアグラムは中谷編集委員長も特集扉に採用していて、これはたしかに「手強い」。四つの系はそれぞれ他と対立的であって、他を自らの論理に包摂しようとする。これを使えば、1920年代から70年代までの諸論争はおよそ、(隈が指摘するとおり)建築家が「使用者・人・民衆・市民」の系に自らの立場を位置づけることによって、「法/土地」(国家・官僚制)、「利潤/資本」、「技術/物質」による強力な包摂運動に対して「建築家」を立てる(守る)抵抗運動であったということになる。
 各時代にドミナントな系は、「国家」→「技術」→「資本」と動いてきた。リーディング・アーキテクトは各時代の支配的な系を、建築を動かす論理として味方につけてきた。60年代から70年代へは、「技術→資本」のシフトにあたっており、建築論としては「都市から個へ」「生産から消費へ」というシフトだった。70年代以降の「人」の系はもはや国民とか民衆といった共同体や階層ではなく端的にいえば個別のクライアントのことで、集団的に扱うときもノマド的な消費者の群れであるにすぎないが、いずれにせよそれは「資本」に包摂されている。神代の「巨大建築に抗議する」はほとんどの建築家が「資本」の系に包摂されようとする状況に対して異議を申し立て、コールハースは同じ状況を露悪的に方法化した(伊東豊雄は少しのちにこれを外在的立場が通用しない「海」と捉えた)。
 というわけで、僕は回顧編というべき第1部と現在編となる第2部をつなぐ位置に、「戦後建築論争史の見取り図:とくに「巨大建築論争」の再読のために」という記事を書かせていただいた。僕としてはここ数年でも一番難しいお題を頂戴したと思う。とにかく真面目に頑張ることにした。
 ところで、創宇社以降は建築論争の基調をつくったのはだいたい左派だし、かつこれまで戦後建築史を書いてきたのもおおむね左派なので、実はバランスのとれた戦後建築史ってまだない。堀口・神代の系譜も、在野的ということで(あえていえば)左派に利用される傾向にあるけど、彼らはもっと懐が広い。神代の場合、戦後の状況につねに立ち会い、批判を通して戦後の一切を自身の評論に堆積させてしまったところがあり、いくぶん悲劇的なのだが、ゆえに捉え難さがあるのは否定しえないとしても、きちんと多角的な評価をせねばならない人物である(神代は印象批評だから負けたなんて総括は論外)。


 今回の記事を書くにあたっては、松崎照明氏との間で何度も意見交換をさせていただいた。心から感謝しております。記事に謝辞を入れられず申し訳ありません。それと昨年2ヶ月ほど勉強と議論の相手役をしてくれた研究室の石榑君ありがとう。
 それにしても隈・岡崎対談に全部もってかれてる気もしなくはない。頑張る。