篠原一男『住宅論』より抜き書き

先日(8月29日(日))、雑誌の取材で逗子のある住宅を訪れ、設計者の久野紀光さん・会田友朗さんと楽しい議論をさせていただいて大いに刺激をいただいたのだが、その折に、お二人に篠原一男『住宅論』(SD選書、1970/2000)についてとても大事なことを教えていただいた。これは不覚、と一気に通しで再読。その論点はあえて言いませんが、その線に沿った個人的抜き書きを以下に公開するので、ご自由に噛み締めて味わっていただければ幸いです。

■「日本伝統論」(「住宅論」新建築196004)
《民家は正確には建築ではなく、自然の一部なのだとわたくしは思う。》

■「失われたのは空間の響きだ」(近代建築196210)
《個人住宅の設計がこんなに普及してしまったのは日本だけのことだという。》
《問題はぎりぎりまで個を追求し、一挙にして反転、普遍に転化できればよいのである。》
《最近押し寄せてきた高潮は都市である。都市あるいは都市計画とのつながりをひとつの住宅にも強調しなくては気がすまない。けれど、都市計画に全く無関心な建築家がいるだろうか。この巨大な村落、東京の風景を眺めて何の意見を持たぬ建築家がいるとは思えない。しかし、建築家がつくらねばならない、都会に建つひとつの住宅にも都市のイメージがなくてはならないだろうか。私にはそうは思えないのだ。多くの建築家によって様々な都市のイメージが提案された。時期もよく、十分なキャンペーンとなったと思う。しかし、建築家の数と同じだけ都市の数がある間は都市は虚像でしかない。ほんとうに目標となる都市の実体は不在だからだ。このような現況のなかで、ひとつの住宅にも都市計画を反映させねばならないという論理はただその建築家個人の設計の発想を意味するにすぎない。ひとりの建築家の意図するような都市がつくられたときにだけ、この方法はすばらしく有効かもしれない。けれども都市計画に関心を持つことと住宅設計の方法とは同一次元の問題ではない。独立住宅の本質は自由にあるのだと私は考えている。未来の都市がどのように美しく完成した時でも、この都市の制約から自由な、個人の住宅がその都市を遥かに見据えて立つだろう。都市からの自由とは逃避ではない。対立しうるという自由なのだ。私は現在の時点さえ、もう住宅は文明批評を含まねばならないと考えている。都市と協調し、あるいは対立するのも自由な、人間の強靭な意志の表現を、ますます住宅が担わなくてはならないからである。住宅に都市計画を考慮しなければならないとするならば、それは都市とは全く独立したものだという考えが私には最も根源的なリアリティがある。》

■「3つの原空間」(新建築196404)
《最初の手がかりのイメージが少しでもつくられたなら、もう比喩から離れなければいけない。いつまでも対応を続けていると誤った膠着状態にいきつくであろう。》
《建築には空間というものだけであって、これを人間が操作して象徴化も装飾化も行われるのだという、いわば一般化した考え方のほうが一番問題なのである。この私の論文の内容がいちばんぶつかり合うのはこの無色透明無性格の空間論とその操作論であろう。私はこの無色透明無性格の空間という原形質を認めようとは思わないからだ。》
《日本のひろばを私はつくりたいと思う。個人住宅だけをつくってきた建築家だから、なおさら、私の頭のなかからそれは離れない。しかし、空想的な技術操作主義には少しも関心をもっていないから、もし私が接近するなら、まったく反対の出発点と方向によるだろう。ひとつの家と隣の家とをつなげるものはいったいなんなのであろうか、これを「もの」として造形化しえないうち、残念ながら、ひろばへの私の手がかりは見つからないだろう。ヨーロッパの中世都市のひろばに今人びとが注目しているのは、そこに、観念の都市ではなく、家々の壁の連なりや凹み、あるいは素朴な石だたみというもののなかに、人間とひろばとの生きた感情の交流を見いだすからである。》

■「住宅設計の主体性」(建築196404)
《今日の独立住宅はあわただしく動き乱れている社会との対応関係の上で価値を持つ以外にその社会性を問うみちはない。どの建築家もある特定の、そして、金持ちの個人住宅にだけその全精力を使い果たしたいとは考えてはいない。もし条件が許すなら、軒を触れ合うように建っている隣家も取り壊し、一緒に造形したいという衝動を抱かない建築家がいるとはとても思えないのだ。だが、住宅と真剣に取り組んだことのある建築家なら、この「もし条件が許せば」ということばがどれほどの存在であるかを知り過ぎているはずだ。だが、今日のこのような問題を戦いぬいた住宅設計の論理と造形だけが、人びとを納得させ、次の時期の都市づくりの中核を形づくるのだと私は確信する。
 閉塞的状況に対して役に立つと思う火薬は何でも使用してよい。壮大な都市のイメージから引き出した造形がそれに相当すると思うなら試みるべきだろう。だがそれによって住宅の問題が一瞬に爆破できると信じてはならない。今日の日本の社会と人間家族との対応関係をどのようにして空間造形に持ち込むかという原則的な地道な追求を素通りした考えが明日の都市はおろか、今日の小さな住宅の展開にさえ役に立つとは思えない。ひとりの建築家の責任のある生き方の上に確実にとらえられた今日の日本人の人間像を出発点とした様々な仕事が、ある時は対立し、ある時は協調をみせて集合するとき、私たちの本当に期待する明日の都市が屹立するのだ。ひとつの才能が限定する造形ではなく、無数の個性の美しい激突を予定した、限りなく大らかな無性格性を持った都市構造こそ、私たちは期待しよう。
 ……明日の都市は私たちと無縁であるなどとあきらめて小さな空間にもぐりこんではいけない。》
《敷地が美しかろうと美しくなかろうと、あるいは、広かろうと狭かろうと、そんな偶然の条件から設計を出発させてはならぬ。いいかえれば、住宅の設計は敷地の形や環境から独立した発想の上に足場を置くべきだという意味なのである。》
《石や煉瓦で築かれた中庭を持った住宅の形成は、今日この国で関心が持たれている平面模様の次元で考えるべきものではない。》
《中庭形式の平面に限らず、私は敷地の形や環境から左右されることを好まない。敷地の面白さを利用した解法にも興味はない。計画の途中で敷地が変更になった場合 − たとえば最初の久我山の家や谷川さんの家 − でも計画は何の変更も加えなかった。住宅の発想はいつも敷地以前の地点に置いておきたいと思っているからである。》
《私は現実密着主義からは何も生まれることはないし、政治経済の貧困さのつじつまを合わせるために私たち建築家は存在しているのではないと確信している。》

■「空間の思想と表現」(「住宅論」新建築196707)
《「住宅は芸術である」と本誌に書いたのは五年前であった。今ここに「住宅はすでに芸術になった」と書こうと思う。
 最近建てられる住宅がすべて芸術になったといっているわけではない。今日の住宅設計はその空間に密度の高い芸術性を与えないかぎり社会的な存在理由はきわめて希薄になるだろうという意味である。このようなきびしい時代にすでになったのではなかろうかという意味である。》
《私たちの仕事の住宅はいつもひとつの人間家族を通してしかこの社会と接触するみちはない。この莫大な数のなかのたったひとつの単位との接触という住宅の条件は絶望的でさえある。しかし、人間一般という問題について、この頼りなげな接触法は本当に絶望的であろうか。私はそうは思わない。……個を通して全体をとらえるという過程は、居直りどころか、最も正統的な人間の社会への接近法なのである。もちろんそのためには必要な手続をふんでのことであるが、小さな個のなかに人間と社会の大きな問題を投影させることは不可能なことではない。住宅設計が持っている現代社会に対する機能はすべてこの点にかかっているのだと私は思う。》
《住宅の設計をしているとき、平面あるいは立面が、何かある形に向かって収斂していき、どこかを動かそうとすれば設計の条件を変える以外に手がかりがないという事態を経験する。これは固有値に向かって表現が固まりつつあることを示すのだろうと思う。こうした作業の結果生まれるすぐれた解法を原型(prototype)と呼ぶのだろう。
 住宅というひとつの空間設計の分野のなかにも規模と固有値との関係をいつも実感する。だから都市から住宅までをひとつの構成理論で覆うような単純な解法を私は信用しない。だが私のこの考えはすべての建築空間はばらばらな法則で動くということではないのである。量子力学の特殊なものがニュートン力学であるとするような背後の統一性が存在することによって、全体の体系が結びつけられていることをふたたび類比させようと思う。住宅はかまわず自由に造形の文法を開拓しよう。都市のなかにたつ大きな建築もその条件のなかで自由に法則を発見して行こう。それらを背後で統一し制御する文法が都市構造であり、それは必然的に抽象的な体系、たとえば数学的体系がもっともふさわしいものになるだろうと私は考えている。その体系とは古典的な関数式ではなく、今日の都市の混乱の事態もその一断面として関係づけながら追求する抽象化による体系である。現実と絶え間なく交差しなければその抽象系は最初から観念の空間にしかすぎない。
 小さな空間設計を社会化するための手続は決して単純な短絡法とってはいけないのだと思う。重層的な対応関係をいつも正確に計算する努力を私たちは要請されていると思う。このような前提の上に立ち、私は空間の永遠性を刻もうと考え、思想の空間を確立したいと作業する。人間の多様な情念の表現が許されないような単調な灰色の世界を、私たち住宅をつくる建築家は未来の都市とは呼ばない。極度に進んだ技術系とそれにふさわしく激しい情念系との葛藤が自由に営まれる豊かな都市空間でなければ私たちはそこに歩まぬほうがよい。》
《正方形のような自己完結な形はいいかえれば他の空間への呼びかけをもたないということである。その反対に完結しない形はその欠如した空間があるために周辺への働きかけが生じてくるものだ。住宅の集合を考えていくとき、この問題がどこかで有効な役割を果たしそうな気が私にはする。いずれにしても私にとって新しい主題であり、まだ十分な報告の用意がない。》