ノン・ヴァーバル・コミュニケーションとシャボン玉理論

コミュニケーションには、ヴァーバル/ノン・ヴァーバル(言語的/非言語的)のふたつがあるとG・ベイトソンは書いている(『精神の生態学』)。後者はジェスチャーや表情や目の動きみたいなもの(ただし2本指で数を示したり手でバツをつくったりする記号表現はヴァーバル)。建築に引き寄せて言えば、19世紀までの建築はヴァーバル・コミュニケーションの媒体たる「様式」を支えにしてきたが、近代建築はこれを剥ぎ取ることで、ノン・ヴァーバルな建築とヒトとの関係を探求する途を開いたことに大きな功績があったと言えるだろう(もちろんその限界への意識が60年代以降のヴァーバル・コミュニケーションの復活、典型的にはポストモダン・ヒストリシズムを呼び起こすことになるのだが)。
ところでル・コルビュジエの『建築をめざして』(1924)に、よく知られたシャボン玉の喩えがある。シャボン玉の外形が息を吹き込んだ結果として現れるように、建築は内的な要求のみにもとづいて成形されねばならないと彼は説いた。これをコーリン・ロウは機能主義の寓意と捉えている(『コラージュ・シティ』原著1978)。しかし、東方への旅の経験を引きながら語られる「シャボン玉」の節を素直に読めば、それは記号的表現を剥ぎ取られた建築が、いかにヒトとの間にノン・ヴァーバルなコミュニケーションをなしうるかという問いへの思索であったと考えざるをえない。長くなるが引用してみる。

一つの建物はシャボン玉のようなものだ。この泡はもし気圧が内部からよく規正されてよく平均していれば、完全に調和している。小アジアのブルッスにある緑のモスクは人間的な尺度の小さな扉から入る。ごく小さな玄関が、鑑賞に必要な尺度の変化の場として作用し、通って来た道や敷地から来る尺度と、印象づけようとする尺度とを調整する。すると回教寺院の大きさを感じ,あなたの目は測定できる。大理石で真白な、光がいっぱいある広い空間に入る。その先にほとんど同じ寸法の第二の空間があるが、くらがりが充満していて、数段上っている。両側には、もっと小さい暗がりが二つある。ふりかえると、二つのごく小さな暗がりがある。光いっぱいのところと暗がりとのリズムがある。まるでかわいい扉と、大変ひろい入込み。そこでつかまってしまい、普通の尺度を失ってしまう。感覚的なリズム(光と立体)の支配下に入り、巧みな方法で、それ自体の世界に導かれ、語るべきことを語れる態勢になる。何という感動、何という信仰! これが動機となった意図である。考えの束は用いられた手段である。結果。ブルッスでもコンスタンチノープルの聖ソフィア寺院でも、イスタンブールスレイマニエ寺院でも、これらの結果としての外がある。
結婚の家、ポンペイにて。やはり道路での精神を取り除ける玄関。そしてカベイディウム(控の間)に入る。真中に四本の柱(四つの円筒)が、屋根の蔭に向って一挙にのびる。力の感じと力強い手段。だが奥には柱廊を通して輝く庭に、大らかな光の面としてひろがり、届き目立たせ、左に右に遠くおよび、大きな空間をなす。二つの間には、タブリウムが写真器のレンズのようにこの眺めを限定する。右と、左に、二つの小さなかげの空間。みなの雑踏の道、思いがけない絵画的な眺めが一ぱいの場所から、こうして一人の〈ローマ人の〉家に入ったのだ。威厳ある大きさ、秩序。立派な広がり、一人の〈ローマ人の〉ところにいるのだ。それらの部屋は何のためにあるのか? それは問題外だ。二〇世紀の後、歴史的な暗示なしに、建築が感じられる。それだのにこれはごく小さい家なのだ。(『建築をめざして』1924/吉阪隆正訳、SD選書・初版1967、p.141-142)

ノン・ヴァーバルなコミュニケーションの特徴が現れるのは、否定の表現である。ベイトソンの例では、犬が他の犬に「お前を噛まない」と伝えるためには、まず牙を剥き、そのうえで甘噛みしたりじゃれたりする。つまり言葉のない関係世界では、こうした単純なコミュニケーションでも、(1) 相手の直接的な参加、ならびに (2) ポジティブな表現とその直後のネガティブな反転の連鎖、が必要とされるである。ノン・ヴァーバルな世界へと解放(あるいは幽閉)された建築は、この種のコミュニケーションの連鎖的な重層だけにその可能性が残る。ポンペイの家は二〇世紀の時を隔てていまやヴァーバルな意味は失われ、ゆえに「建築」それ自体になっているとル・コルビュジエは言うのである。機能など問題外だとも。
(注)ロウのシャボン玉建築批判そのものは僕はまったく賛同。フリースタンディング・オブジェクトは特別な場合をのぞいて都市では不可。